English から Englic へ

EnglishからEnglicへ

啓(2023年6月7日)

 かつて読みいろんな意味で感激した本を何年か後に読んだところ、「いいことは書いてあるが、それほどでもないな」「何について感激したのだろう」「どう言って人に薦めたのだろう」と思うことが偶にある。
 昭和 50 年の発行後に直ちに買った「閉ざされた言語・日本語の世界」(鈴木孝夫、新潮選書)を再読した。当時、非常に感銘を受け、何人かの友人に薦めたことを思い出しながら卒読したのだが、今、改めて読み返し、その当時に「何に特別に感心したのだろう」「どの論に心をゆすぶられたのだろう」と思った。
 論理を尽くした刺激的な意見も述べられており、「文字と言語との関係」の項に書かれている「『音』とは何か、『訓』とは何か」などはいま読んでもとても面白い。しかし、どのような理由で他人に一読を勧めたのかは思い出せなかった。
 再読して見て「今でも通じるな」あるいは「今こそ考える必要がある」と思ったのは「英語はもはや『英語』ではない」ということだった。
 そこには「英語は徐々に、そして第二次世界大戦後は急速に(イギリスやアメリカといった)特定の国々の国語としての狭い枠をつき破って、事実上世界の共通語の性格を帯びるようになった。……このことを少し違った角度から言うと、まず英語という一つの言語があって、それをそのまま世界語としていろいろな国で、さまざまな場面において用いられているのだと思うのは間違いであって、世界語としての英語と、特定の国の国語としての英語は、もはや別のものと考えるべきだと言うのである」と書かれている。
 そして「英語国民に特有の思考の枠組、文化(そして独特なイディオムと発音)からできる限り解放された英語をイングリック Englic と呼んで、英国の英語、アメリカの英語を基本として考えるイングリッシュ English と区別すべきだ」と主張する。(手元の辞書数冊をチェックしたが、 Englic という単語は載っていない)
 さらに進んで「 English Englic とは、たしかに歴史的、発生的には密接な関係があるが、今では別のものと考えてよいほど、語学的にも機能的にも別のものとなっている。……今日私たちが国際的な場面で、実際に出会う英語は想像を絶するほど多様な性格をもっている」として、ある学者が経験した(当時)「オーストラリアではアメリカで出版された(コンピューター関係の)本を(オーストラリア英語に)翻訳するという仕事が商売になっていた」話が書かれている。
 言語というものは「その言語を生み育てた人々の文化、思想、そして世界観と表裏一体をなしている」ことを考えると、イングリッシュ English ではなく、イングリック Englic を使うことにより「自ずとそこに現れてくる使用者(発言者)の母国語の影響と、彼の個性が横溢した、英語に非ざる言語」を話すことになる、とする。
 確かに、テレビ画面に現れる多くの国の人びとが話す英語は、発音や文法の点からは多くの間違いがあるようであるが、話し手の母国語のよって立つ精神的影響や思考基盤に支えられた英語になっており、しかも聞き手には充分に理解されている。
 我われも日本の思考や精神に裏付けられたこのような英語である Englic を話す必要があるのではないか、と考えさせられる論稿だった。