「国際感覚のズレ」と「生活の座」

「国際感覚のズレ」と「生活の座」

啓(2023年4月5日)

 イザヤ・ベンダサン名義で書かれたベストセラー「日本人とユダヤ人」(山本書店)を含めて手元にある山本七平氏( 1991 年没)の書物を全て処分しようと整理している。
 処分に先立って何冊かを眺めた。例えば「『常識』の非常識」、「『常識』の研究」(いずれも日本経済新聞社)「『空気』の研究」(文藝春秋)などなど。いずれも50年以上前の本であるが、教えられるところが多い。現代に置き換えてもそのまま通るような論が述べられている。
 過去はどうだったかは思い出せないが、現時点での私の心に留まった二つを記録して、追悼の辞に替える。
 その第一は、マスメディアの報道について「国際感覚のズレ」という観点からの文章である。
 そこでは「国際感覚のズレ」は、必ずしも情報の量の問題ではないと「日本ぐらい、海外情報が解説つきで多量に報じられる国は少なく……その総量は世界一かも知れない」と例をあげつつ自らが感じたズレを書く。
 ズレの原因について氏は、日本は国際情報についての歴史が極めて新しく、世界の情報についての情報史的な厚みのある蓄積を有していないことによるという。私は「情報史的」という言葉の意味をよく理解できないのだが、例としてパレスチナ報道についての解説の基礎となる幾つかの氏が基本と考える資料の名が挙げられていた。氏がその資料の一つの海賊版をエルサレムのアラブ人の本屋で入手したときには「目がとび出る」ほどの値段だったそうだ。
 山本氏は自らが深遠な知識を有するパレスチナ関連報道の解説について「英語圏における過去の情報量の膨大さ、その情報史的な厚みは、まさに段違いと言わねばならない」と書き具体的に例を挙げて説明する。そしてそれと比較し日本のマスメディアの報道は、具体的に例を示した上で「『日本人的世界』のニュースに還元されており、外人名を冠した国内ニュースになっているのである」とする。
 これがいわゆる「国際感覚のズレ」の原因なのだろう。
 この文章を読みながら、最近のロシアのウクライナ侵攻に関する我が国のマスメディアの報道内容や解説を思い出した。その多くは山本氏に言わせれば「『日本人的世界』のニュースに還元された『国内ニュース』」の報道であり解説になっているのだろう。
 しかし、 50 年前と格段に異なる情報環境、情報化社会となった現在では山本氏の見方も少し修正する必要があるかも知れない。このように思いつつも過去に文字で積み上げられた数多くの知識や情報の意味がなくなったとは決して思えない。依然として、あるいは今まで以上に重要性を増していると思われるのだ。
 第二として、氏は「生活の座」を考えることの必要性について「語られた言葉は同じでも、その言葉をそのまま受け取るのと、その言葉が語られた『時』と『場所』すなわち生活の座においてそれを受け取るのとでは、意味が全く異なってくる」と当然と思われることから議論を始める。
 そして、その例として最近の(著書が発刊された当時の)日本の新聞には、例外を除けばこの常識さえなく「この二つを峻別するという意識さえ皆無に近いことに気が付いた」と書き、その著作が書かれた当時の新聞記事の記述の問題点を具体的に指摘している。
 氏はいろんな事実やそこで語られる言葉を、その事実が発生し、その言葉が語られた「生活の座」において解釈することが必要であることを教えてくれた。当然と言えば当然のことであるが、うっかりするとこのことを忘れてしまう。
 現実に氏の言を実行することには難しい場合もありそうだが、何事によらず書かれあるいは発言された「言葉の意味」を解釈するにはそれらの「生活の座」を常に意識する必要があると反省した。
 私自身もいろんな報道に接した時にその内容に「ん?」と思うことがあるが、それはそれらの報道内容が「生活の座」を離れた、報道者自らが構築した「頭の中の座」からの解釈が原因なのかもしれない。
 このようなことを思いつつ夜のニュース番組を眺めながら、やっぱり山本氏の著作は残しておこうかと何度目かの逡巡の時を過ごした。思い切りの悪いこと甚だしい。