若き司書の意見
「N市にはお金がない…率直なところ、現在のN市はあまりにお金のつかいどころを誤っていると言わざるを得ない。救急センターも未整備だし、市営住宅も老朽化しているし、ごみ処理施設も拡充しなければならないというのに、図書館などという腹の足しにもならぬ文化施設に少なからぬ予算をぶち込むとは本末転倒もはなはだしい。分不相応この上ない。…貸出の実績を見ても、購入図書の一覧を見ても、事実上、無料貸本屋ではないか。そんな仕事ならわざわざ自治体が手をわずらわせることはない。…」(光文社、門井慶喜「おさがしの本は」100頁)
このような新任の図書館副館長(後に館長を経て市長室長になる)の問題提起にどのように答えるか。主人公の若き男性司書はどのような答を出すのだろうか。私ならどのように答えるだろうか、と自問自答しながら読み進めた。
通常ならその答は「…読書はおよそ少年の情操をやしない、青年の教養を深め、壮年の知識の泉となり、かつ老人のいわゆる生涯学習にも資するものである。だからN市が図書館を廃止し、市民からの読書の習慣を遠ざけるのは文化的な暴挙というほかない。…」(同書208頁)となるだろう。若き司書はこのような答を出した。私もこのような趣旨のことを考えていた。
しかしこの反論は、図書館存続派の市議会議員に「ありきたりだ」「…まあ、むやみと常識的でむやみと様子がいいだけ」と評価された。言われてみればその通りである。このような内容なら、いくら表現に趣向を凝らしても人を感動させることや意見を変えさせることはできない。
若き男性司書が同僚の女性司書の「水と油をまぜる」「法律という要素と図書館存続論という要素を結びつけて論じる」とのヒントや「少なくとも教養とか生涯学習とかいう抽象的な、ぼんやりした価値にしがみつくよりはいいでしょう。いまは文化論なんか捨てるべきです。…もっと現実的な損得を説かなければいけない」との発言をもとに最後に展開したのは概要次のような論だった。
「図書館存続の理由は、図書館は究極的、本質的に救急医療センターや市営住宅と全く変わらない施設である」、敷衍すると「近代日本は法治国家である。そして法律とはそれ自体は文字の連なりである。そして大事なことは全ては印刷物により知らされる。法律・条例から始まり新聞、薬の効能書、生命保険の保障内容、スーパーマーケットの特売品目等々。こういう社会にあっては、文字を読むという行為からは逃れられない。生存のために必須ではないかも知れないが、近代的生活のためには必須だ。その文字を読む能力を大規模、組織的に、養い、鍛え、保ち、深めるための装置は書物である」。
そして、文字を読む能力を涵養する支援を、財政難にあえぐ自治体が引き受けなければならない理由は「図書館とは、救急センターや市営住宅と同じ機能を果たす施設だからだ。市民の9割は救急センターを使わない。市民の9割は市営住宅の世話にはならない。行政が手を差し伸べる対象はたった1割だが、少数であるところにこそ公金を投じる意義も理由もある。これは図書館においても同じであり処置を必要とする人のために存在する必要がある」(詳細は同書245頁~247頁参照)
若き司書の意見はそのとおりだとは思う。問題は「図書館利用者の現実はどうか」だろう。確かに、図書館の利用者には図書館を無料貸本屋や無料休憩所と見做している人物がいる。しかし、これはタクシー代わりに救急車を利用する人物や不正に市営住宅に入居している人物が存在するのと同様だろう。
自己本位あるいは自己欺瞞の結果とも思われるこれらの問題は、民度や文化度が高くなり、成熟すれば自然に解消される問題だ、と静観せざるを得ない。少なくとも静観しておくのが精神的にはいい。
「結論ありき」ではあるが、これらのことを念頭に、若き司書の主張に軍配を上げよう。少なくとも私はこのような論を立てることには思いが至らなかった。
(追記)
このようなことを考えつつ、門井慶喜さんの「おさがしの本は」(光文社)を読了した。「図書館のカウンターの内側」との関係では、レファレンスの重要性を説く若手司書に対し副館長が「研修」と称して提出した書物探しに関するあれこれや図書館利用者からのレファレンスに関する種々の検討過程はとても面白かった。自分自身が司書になったつもりで、どのように調査をするか、いろいろと考えたものである。
「忽遽の間(そうきょのかん)、「西人(せいじん)の糟粕(そうはく)をなめる商い」、「蹌踉(そうろう)として」など最近の本には現れない表現が随所に見られたが、あっという間に読み終えた。
このような新任の図書館副館長(後に館長を経て市長室長になる)の問題提起にどのように答えるか。主人公の若き男性司書はどのような答を出すのだろうか。私ならどのように答えるだろうか、と自問自答しながら読み進めた。
通常ならその答は「…読書はおよそ少年の情操をやしない、青年の教養を深め、壮年の知識の泉となり、かつ老人のいわゆる生涯学習にも資するものである。だからN市が図書館を廃止し、市民からの読書の習慣を遠ざけるのは文化的な暴挙というほかない。…」(同書208頁)となるだろう。若き司書はこのような答を出した。私もこのような趣旨のことを考えていた。
しかしこの反論は、図書館存続派の市議会議員に「ありきたりだ」「…まあ、むやみと常識的でむやみと様子がいいだけ」と評価された。言われてみればその通りである。このような内容なら、いくら表現に趣向を凝らしても人を感動させることや意見を変えさせることはできない。
若き男性司書が同僚の女性司書の「水と油をまぜる」「法律という要素と図書館存続論という要素を結びつけて論じる」とのヒントや「少なくとも教養とか生涯学習とかいう抽象的な、ぼんやりした価値にしがみつくよりはいいでしょう。いまは文化論なんか捨てるべきです。…もっと現実的な損得を説かなければいけない」との発言をもとに最後に展開したのは概要次のような論だった。
「図書館存続の理由は、図書館は究極的、本質的に救急医療センターや市営住宅と全く変わらない施設である」、敷衍すると「近代日本は法治国家である。そして法律とはそれ自体は文字の連なりである。そして大事なことは全ては印刷物により知らされる。法律・条例から始まり新聞、薬の効能書、生命保険の保障内容、スーパーマーケットの特売品目等々。こういう社会にあっては、文字を読むという行為からは逃れられない。生存のために必須ではないかも知れないが、近代的生活のためには必須だ。その文字を読む能力を大規模、組織的に、養い、鍛え、保ち、深めるための装置は書物である」。
そして、文字を読む能力を涵養する支援を、財政難にあえぐ自治体が引き受けなければならない理由は「図書館とは、救急センターや市営住宅と同じ機能を果たす施設だからだ。市民の9割は救急センターを使わない。市民の9割は市営住宅の世話にはならない。行政が手を差し伸べる対象はたった1割だが、少数であるところにこそ公金を投じる意義も理由もある。これは図書館においても同じであり処置を必要とする人のために存在する必要がある」(詳細は同書245頁~247頁参照)
若き司書の意見はそのとおりだとは思う。問題は「図書館利用者の現実はどうか」だろう。確かに、図書館の利用者には図書館を無料貸本屋や無料休憩所と見做している人物がいる。しかし、これはタクシー代わりに救急車を利用する人物や不正に市営住宅に入居している人物が存在するのと同様だろう。
自己本位あるいは自己欺瞞の結果とも思われるこれらの問題は、民度や文化度が高くなり、成熟すれば自然に解消される問題だ、と静観せざるを得ない。少なくとも静観しておくのが精神的にはいい。
「結論ありき」ではあるが、これらのことを念頭に、若き司書の主張に軍配を上げよう。少なくとも私はこのような論を立てることには思いが至らなかった。
(追記)
このようなことを考えつつ、門井慶喜さんの「おさがしの本は」(光文社)を読了した。「図書館のカウンターの内側」との関係では、レファレンスの重要性を説く若手司書に対し副館長が「研修」と称して提出した書物探しに関するあれこれや図書館利用者からのレファレンスに関する種々の検討過程はとても面白かった。自分自身が司書になったつもりで、どのように調査をするか、いろいろと考えたものである。
「忽遽の間(そうきょのかん)、「西人(せいじん)の糟粕(そうはく)をなめる商い」、「蹌踉(そうろう)として」など最近の本には現れない表現が随所に見られたが、あっという間に読み終えた。