稲むらの火

稲むらの火

麻(2024年10月9日)

 去る8月8日に南海トラフ地震想定震源域の西端にあたる日向灘を震源とするマグニチュード 7.1 の地震が発生しました。気象庁は、南海トラフ沿いの地震に関する評価検討会を臨時に開催し、想定震源域では大規模地震の発生可能性が平常時に比べて相対的に高まっていると考えられるとして、南海トラフ地震臨時情報(巨大地震注意)を発表しました。そして岸田首相(当時)のカザフスタン、ウズベキスタン、モンゴル訪問も取り消され、市町村や個々の国民に関しても行動についての多くの自粛が行われ、それらがマスメディアで大きく報道されました。
 その中には関西では有名な海水浴場である白良浜を始め町内の全ての海水浴場を閉鎖した和歌山県白浜町のニュースもありました。マスメディアは「その間の宿泊キャンセル等による損失は白浜町長によると約5億円に上る」と報じました。

 岸田首相や白浜町長の判断については賛否いろんな意見がありそうですが、8月 16 日付の産経新聞「モンテーニュとの対話」(桑原聡)では「さすが物語『稲むらの火』の元になった史実のあった和歌山である。感受性が違う」と書かれています。そして「稲むらの火」を引用し、「つなぎ続けたい天災の記憶」として紙面の四分の一強を使った文章が掲載されていました。

「稲むらの火」やその主人公のモデルになった浜口悟陵の話は知っていましたが、再度確認しようと図書館から次の本を借り出しました。
 ①「もえよ 稲むらの火」(桜井信夫・作、高田三郎・絵、PHP研究所)
 ②「津波とたたかった人―浜口悟陵伝」(戸石四郎、新日本出版社)
 ③「津波救国<稲むらの火>浜口悟陵伝(大下英治、講談社)

 上記の新聞記事にも詳しく書かれており、そして私も知っています「稲むらの火」は「安政南海地震(旧暦安政元年11月5日)の直後、現在の和歌山県広川町の高台に暮らす庄屋の五兵衛は、海の変化に気付く。津波が襲来すると直感した彼は村人に危険を知らせようと刈り取ったばかりの稲の束(稲むら)に次々と火を付ける。火事だと勘違いした村人たちが消火のため高台に上ってくるのを期待したのだ。果たしてもくろみは成功し、村人全員が高台に上ったあと、村は津波に飲み込まれる」というものです。
 この話はよく知っていますが、同時にいつの頃だったか「お百姓が大事な、貴重な稲むらに火をつけるはずはない。火をつけたのは“すすき”や“脱穀後の稲藁(いなわら)”である」そして「火をつけた理由は、暗闇のなか津波から逃げる村人のための照明が目的だった」という意見があることを知ったのも覚えています。
 今回卒読したこれらの本のなかに「『稲むらの火』は、和歌山県の小学校の中井常蔵先生がラフカディオ・ハーンの『生き神様』(A LIVING GOD)を読み、郷土の偉人の行為に感激し、国定教科書用の話としてその内容を書き応募し、それが入選し、そのまま新しい教科書に載った」ことが書かれていました。
 また、主人公の五兵衛こと浜口悟陵自身は自らが作成した記録に「田間に積堆せるすすきに火を挙ぐ。照暗の標を得て脱し来る男女九名を得たり」と書いているそうです。このようなことはここにわざわざ言上げする必要のないことかも知れません。広く人口に膾炙している「稲むらの火」をそのまま事実と信じて、地震の後に起こる津波対策を具体的に考える方が建設的だろうと思います。

 これらの本を読んで驚きかつ感心したことがあります。災難に遭った人々に対し炊き出しや避難所の手配をすることは誰でも考えることですが、浜口悟陵は復興に手をこまねいていた幕府や藩に代わり、村を津波から守るため、また職を失った人々に職を与えるために、大防波堤建設を核とする村再建計画に自らが費用を負担し着手したのです。数年にわたる建設事業により村民の仕事と生活を保障したのです。これは定住をもたらす効果もあったことでしょう。

「稲むらの火」からいろんなことを知り、考えることができました。私は知らなかったのですが、平成 23 年に制定された「津波対策の推進に関する法律」では11月5日を津波防災の日と定められていますが、これは安政南海地震と稲むらの火の故事にちなんだということです。