なるほど、文学処方箋

なるほど、文学処方箋

muca(2025年3月19日)

セーヌ川の書店主

 忍耐力が乏しくなっているという自覚がある私にしては珍しく、放っておけない他のことのために中断はしても、何日もかけずに読み終えるだろうという確かさがあった。ニーナ・ゲオルゲの「セーヌ川の書店主」原題「Das Lavendelzimmer」(遠山明子訳)である。

 一つ一つの言葉をつながりとして理解しようとするのは早々にあきらめ、とりあえず流し読みをすることにしても、書かれていることの流れを見失わないような、不思議な作品だった。

 ジャン・ペルデユは、はしけを買い、自分で改造して<文学処方箋(原作では「薬局」)>と名づけた書店を営んでいる。
 彼が勧める本は、この書店を訪れた悩みを持つ者を失望させない。

 繊細な者にとって、自分がはるか昔におかした過ちから逃れるのは容易なことではない。
 ペルデュが自分の誤解から愛する人(マノン)を深く傷つけてしまっていたことを何年も経ってから知ったとき、すでにそれを詫びる機会は失われていた。これほどの深刻さはなくても、似たようなやるせなさや人生の選択ミスのようなものをいくつか経験している私には、その辛さがわかる気がする。

「行くよ。マノン、きみのところへ」

 ペルデュは20年あまり岸につないでいた<文学処方箋>のロープを解き、若い作家ジョルダンと南仏・アヴィニョンへ向かう。途中、バーテンダーで料理の名人クーネオも誘い入れてのハラハラさせる道中が面白い。預金はあるが下ろせないので、本を食料などと交換するのを、私は「もったいないことを」と思ってしまう。
 アヴィニョンで、ペルデュは船をクーネオ(と、その恋人になった、作家のサミー)に譲り、レンタカーでマノンが住んでいた家を訪れる。

 マノン、きみのいうとおりだ。いまだにすべてが存在している。ふたりで過ごした時間は永遠で不滅だ。生は決して終わらない。愛する者の死は、ひとつの終わりと新しい始まりの間の境目に過ぎない。

「こういう考え方、こういう解釈もあるんだよ」と、救いの手を差し伸べてくれるような結末に出合うとき、私は、いいようのない爽やかさに包まれる。

 余談になるが、私自身に照らし合わせて妙に腑に落ちたのが、サミーがペルデュに語ったことの一部である。

 13歳のときに木から落ちて、検査をした結果、わたしの脳には嘘をつくのに使う器官が欠けていることがわかったのよ。わたしにはファンタジーが書けない。実際に喋る一角獣に会わないかぎりね。そうよ、わたしには100パーセント自分が感じたことしか書けない。ジャーマンポテトについてしゃべるには、フライパンに入ってみないとだめなタイプってこと。

 普通の人には “嘘をつくのに使う器官” があるというのは、ニーナの発明に違いないと思うが、作家のサミーには致命的なハンデのはず。創作能力のまったくない私もこの器官がないのかもしれないが、 “努力するのに使う器官” もないのだなと苦笑したのである。