月報

月報

啓(2024年5月29日)

 ここで書く月報とは会社や役所勤めの方々が過去1ヶ月間の活動を記録し、上司等に提出する文書のことではない。文学全集などの連続して刊行される出版物に、別刷として表紙の後ろに挟まれている印刷物の意味である。
 この月報については 2021 年1月 13 日付のこの欄で「本棚の飾り物」とのタイトルの下「この飾り物となってしまった全集とどのように付き合うか。今更全巻を読み通せるわけはないし、そして悔し紛れに言うのだが、これから全巻を読破することがそれほど大切だとも思えない。そこで、折角手元にあるのだから、実際に手に取り、挟まれている月報を読み、その後1ヶ月間は机の傍に置き、折に触れてあちらこちらと覗き見する、こととした」と書いた。
 しかし、その後の私の行動を見る限り実行することは絵に描いた餅、夢のまた夢となったようだ。
 図書館の書棚を眺めていた時に講談社文芸文庫編の「個人全集月報集」(講談社文芸文庫)が目についた。講談社から発行された安岡章太郎、吉行淳之介、庄野潤三各氏の全集に添付された月報を纏めたものである。
 解説もなく月報に書かれた文章をただ単に羅列しているだけの、いかにもお粗末な編集だと呆れたが、読んでみるとそれなりに面白い。また、何らかの理由で全集中のある一冊に付けられた月報が行方不明になったりすると(これがよく発生する)、なんとなく気持ちが悪い。さりとて月報だけを新しく入手する方法もない。このような場合にこのような本があれば気が休まる(かも知れない)。
 この本で遠藤周作は「安岡のこと」と題して

 今年の夏、私の山小屋に安岡が家族をつれてたずねてきてくれた。安岡がくるならばと言うわけで、私はとっておきのポルトガルのロゼを用意して、ボロ車を運転して途中まで迎えに行った。
 安岡はこのポルトガルのロゼを悦んでくれ、昼食のあと、庭で椅子を並べながら二人でしみじみと話し合った。木洩れ陽が草におちていて、安岡の肩や、めっきりふえた白髪にもその陽がさしている。私は自分の禿げた頭に手をやり、二人とも年をとったなとながれた歳月を思い少し感傷的になった。安岡も同じ思いだったかも知れぬ。

と二人の長年の来し方を回想している。
 また、吉行淳之介全集の月報では山口瞳は「躰」と題して

 文章を書くときに困る文字というものがあるのであって、例えば「匂」と「臭」なんかがそれである。匂でもなければ臭でもないニオイがあるような気がしてならない。
 もっとも困るのが「体」である。つまり、カラダである。
 いまでは、正字で體とかくと重すぎるし、鱧(はも)に似ているようで使いにくい。
 体を身体とかいて、カラダと読ませる人がいる。命を生命と書くようなものだ。
 体(注:傍点がふってある)は弱くって、ふわふわしていて、それこそ、体臭が匂って(注:体臭と匂に傍点がふってある)こないのである。体の原義は実に「劣等、粗末」なのである。そこでいくらか気取って躰と書く人がいる。この方が力はあるが固い感じを免れない。
 あとは「形」と「身」「骸」であろうが、いずれも、意味が違ったり、訓みが無理になったりする。

と自己の悩みを書き、「群像」に書かれた吉行淳之介の「怒りと慣れ」の最後の部分である次を引用する。それは「……最後に一つ、私の常用語に『躰』というのがある。『からだ』と読ませているが、本当はそういう読み方はない。正しい意味は、『トルソ』であって、手足がないわけだ。しかし、胴体だけというつもりで使っているのではなく、この文字の形が好きなのである」である。
 この吉行淳之介の文章を引用しつつ山口瞳は、「私は困ってしまった。『躰』が吉行さんの常用語だというところが困る」と書き「とにかく、その小説では、にわかに躰を止めにして、以後はすべて体を用いることにした」とする。そしてこれに続くのは「その後、気をつけて読んでみたのであるが、躰を使う作家は他にもいて、それは吉行さんに親しい人であったり、あきらかに吉行さんの影響を受けている人であったりで、そのことにも驚いた」である。
 手元にある全訳漢字海(第四版)では「からだ」では「体」「躰」「躰」「躰」「軆」「體」が掲載されている。角川漢和中辞典では「体」「身」「骸」「躰」「體」である。
 作家はいろんな意味や気持ちを込めて漢字を使い分けているのだと改めて感じた。ただこの二つの辞書では「躰」の正しい意味が「トルソ」であるとの説明は見つけられなかった。今度図書館に行った折に諸橋の大漢和辞典を引いてみよう。
 多くの人たちがそれぞれいろんな切り口で作家やその作品について短い文章ではあるが楽しく書いている。作家の友人たちの珠玉の随筆の集まりとも言え、読んで気分のよい本だった。