本で紹介された本

本で紹介された本

啓(2024年2月7日)

 本を読んでいるとそこに著者がいろんな意味を込めて薦めていたり、言及したりしている著者以外の人物による本についての記述を見掛けることがある。激賞と言う表現が相応しい言葉が並んでいることもある。そしてそこから新しい著者や今まで知らなかった書物との付き合いが始まる。このようにして知った書物が何冊か書棚に並んでいる。
 借りていた本の返却で立ち寄った図書館で、中国文学者、エッセイストの高島俊男氏の「お言葉ですが…」シリーズの「司馬さんの見た中国」(お言葉ですが…別巻⑥)(連合出版)を借出した。
 その中に「型を持った文化の、型を持った表現を学ぶ」というタイトルの5頁のエッセイがあった。そこで高島氏は相原茂著の「午後の中国語 ことばのエッセイ」(同学社)を紹介し、著者について「相原茂氏は、そうした黄金の四十代研究者のなかのピカ一――と言ってはほかの人にわるいから、ピカ一の一人である。……」と紹介していた。
 そこでピカ一の学者による、中国語についてのエッセイを読んでみようと、図書館の蔵書を検索し、高島氏お薦めの本を借出した。あとがきには

 ……それまで書き散らしていた雑文、駄文のたぐいを何ということなしにひとまとめにし、いつものように、風呂敷で包んでおいた。……(その後それを読んだ編集者の)「面白いですよ。あれ、出しましょう」(という経緯を経て出版された)……どうか、生気溌剌とした午前中や、静思に向く夜ではなく、誰にでもある、ものうい午後に、紅茶かコーヒーでも飲みながらパラパラ拾い読みをしていただければ幸いである。

と書かれていた。
 著者のご要望どおり「小雨降るものうい午後に、紅茶を飲みながらパラパラ拾い読み」をした。初出一覧を見ると1978年から1990年となっており、現在の中国の状況とは異なることが多いだろうとは思いながらも楽しく読んだ。
 その中に「礼ハ往来ヲ尚ブ」というのがあり、「おごる」「招く」「タバコ」「あげる」等についてのエッセイの後に「名前」についての2頁の短文があった。

 そこでは、

 日本人は初対面の人と会った場合、まず自ら「私は〇〇という者ですが」と名乗るが、中国人は相手の姓名を先にたずねる。自分の姓名は普通たずねられなければ言わない。これは一つには「自分は名乗るほどのものではありません」という謙遜の気持が働いている。……電話をかける方も受ける方も先方が誰かを必ず先に問う。

と書いている。
 そして名前を書くことについて、日本では小学校入学以来、持ち物に名前を書くことを例に挙げ、「中国人は日本人のこういうあけっぴろげな点に驚く。何もそこまでプライバシーを公開することもあるまいにと思うのである」とし、「中国で中国人から手紙をもらう。差出人の名前もなければ住所もなくて気味が悪かったことを覚えている。住所を書いてくる人はいるが、名前が書いてなかったり、あっても姓しか記していないというのが普通のようだ。……これすべて、個人的情報をむやみに他人に知られたくないためである」とする。

 さらに

 当然、人目にさらされるハガキで用件を述べる、などということは彼らには想像もできない。年賀状でも彼らは封書で出す。……専門雑誌に論文がのる。もちろん記名だが、所属する研究機関名が書いてない。本にも著者名があるが、どこのどういう人かは分からない。日本でよく見かけるような「著者略歴」など、もっての外という感覚である。

と書いている。
 この状況が現在の中国に当てはまるか否かについては知らない。
 その他、中国語の勉強方法について極めて具体的な提言も書かれており、現在の私には関係がないと思いつつも「なるほど、なるほど」と読み進めた。
 たしかにピカ一の学者の書いた文章だった。