レシタティフ
M・M(2026年3月25日)
数十年来、おりにふれ本や映画の情報交換をする友人から、今回はこの本をすすめられた。友人は私よりも豊富な読書量である。
50項の短編作品でありながら、解説も50項である。このような形式は初めてだ。つい解説の項をめくってしまう…
解説 … ゼイディー・スミス
その登場人物は、トワイラとロバータという二人の貧しい少女たちだ。ともに八歳で州の保護下にある二人は、聖ボナヴェンチュアという施設で四ヶ月間一緒に過ごす。彼女たちについてトワイラからまず知らされるのは「あたしの母親は一晩中踊ってて、ロバータの母親は病気だった」こと。続いて、二人が四〇六号室に入れられたことだ。「人種がまるで違う女の子と知らない場所に押しこめられる」のだ。私たちには ──隅々まで読んでも── はっきりわからない。どちらが黒人で、どちらが白人なのか。どうしても推測してしまうし、どちらかだと言い張ることもできる。でも、確信は持てない。二人が成長して大人になり、何度か遭遇するところを見られるにもかかわらず。私たちは二人の話を小耳に挟んだり、服装を吟味したり、夫や仕事や子供や生活などについて聞かされたりもするが、肝心な点は明らかにされない。それなら謎かけをしている物語 ── ゲームだ。ただしトニ・モリスンは遊びでやっているのではない。彼女が「レシタティフ」を「実験」だと言うなら、本気でそれを意図している。その実験の被験者は、読者だ。
この本の作者トニ・モリスンは黒人である。
端的に言うと「どちらが黒人であるか」(又はその反対)と言うことだ。短編を読み進めると、描かれた生活習慣の箇所で「このように過ごすのであれば黒人だ」と私は決めてしまう。しかし、次の頃ではそれが覆されてしまう。そして「矢張り彼女は黒人だ」と思う箇所では「いやいやどの人でもそれをする可能性はある」と一人首をふる。この繰り返しがおおよそ50項続く。
うかつにも、答え合わせをしようとしたことを恥じた。この場合、答えは私自身の内にもてば良いと気がついた。「実験」小説は、被験者の「偏見」を浮き彫りにするのだ。その時、読者の年齢、性別、理解力が必要になる。これは重要だ。表面上で決めてしまう浅い考えであるか、又は地にもぐるような深い洞察力であるか。被験者の姿は美しいのか、そうではないのか。
端的に言うと「どちらが黒人であるか」(又はその反対)と言うことだ。短編を読み進めると、描かれた生活習慣の箇所で「このように過ごすのであれば黒人だ」と私は決めてしまう。しかし、次の頃ではそれが覆されてしまう。そして「矢張り彼女は黒人だ」と思う箇所では「いやいやどの人でもそれをする可能性はある」と一人首をふる。この繰り返しがおおよそ50項続く。
読後、私は友人に「こちらが黒人だと思う」と返事をしようとした。しかし、友人からはそのような返事を待っていると言われていない。
うかつにも、答え合わせをしようとしたことを恥じた。この場合、答えは私自身の内にもてば良いと気がついた。「実験」小説は、被験者の「偏見」を浮き彫りにするのだ。その時、読者の年齢、性別、理解力が必要になる。これは重要だ。表面上で決めてしまう浅い考えであるか、又は地にもぐるような深い洞察力であるか。被験者の姿は美しいのか、そうではないのか。
解説 … 続
それでも私は「レシタティフ」の大半の読者と同じく、他者はどちらなのか、トワイラなのかロバータなのか、どうしても知りたくならずにはいられなかった。もう、何としてもはっきりさせたかった。確信の持てる一方の立場に立ってあたたかく共感し、もう一方の立場には冷淡になりたかった。ちゃんとした人間に同情し、取るに足らない者は切り捨てたかった。しかし、これこそモリスンが意図的かつ入念に許すまいとしていることなのだ。その理由を自らに問いかける価値はある。「レシタティフ」から改めて思い知らされるのは、貧しいことも、抑圧されることも、劣っていることも、搾取されることも、無視されることも、黒人と白人の本質的な性質ではない、ということだ。
二人の他にマギーと言う女性が登場する。この女性も重要な登場人物である。しかし、トワイラとロバータの保護関係者ではない。
解説のタイトル[実はあの中にちゃんとした人間がいた]を読んだ時、深い意味だと思った。人々は皆、正しく理解されたい。