読めもしない本
西條八十に“赤い詩集”という七五調の詩があります。
「読めもしないに本箱に/英語の詩集の在るわけを/ひとつ話して聴かさうか。/その日は空が青く晴れ/堤にちらほらさくら草、/僕はひとりで漕いでゐた/主(あるじ)もゐない藻刈船。/「もし」と誰やら呼んだので/うしろを見れば堤(どて)の上、/黒いベールに、傘さした/西洋人のお婆さん。/「もし、もし、日本の少年さん、/ちょいとわたしを向(むか)ふまで/乗せてわたして下さいな」/「イエス オーライ 心得た」/そこで水竿(みざを)を取りなほし/直ぐにわたしてやったのさ。/「アイ サンク ユー ベリ マッチ」/その婆さんはよろこんで、/手提(てさげ)の中のこの本を/僕にお礼にくれてった。/読めもしないに、本箱に/赤い詩集のあるわけが/どうだ、はっきり判ったか。」
少年船頭は“赤い詩集”を見るたびに「黒いベールに傘さした西洋人のお婆さん」を思い、彼女との遣り取りを思い出しているのでしょう。私も「読めもしない」本を眺めるときには、いつもその本を入手した情景やそれに伴ういろいろなことを懐かしく思い出しているのです。
そうそう、何時か読んだ本の中に「積ん読」の効用について楽しく書かれた文章があったのを思い出しました。机の上に積んだ本からは何かが発散されて知らず知らずその本のエキスが頭の中に入る、というものです。本当かなとは思いますが、机の上にあれば知らず知らずに手に取ることはあるでしょう。適当な頁から読み始めるかも知れません。そして何かを得る可能性もあります。書棚に置かれた「読めもしない」本からも同じように何かが発散され私の心の中に入ってくれれば嬉しいのですが。
「読めもしないに本箱に/英語の詩集の在るわけを/ひとつ話して聴かさうか。/その日は空が青く晴れ/堤にちらほらさくら草、/僕はひとりで漕いでゐた/主(あるじ)もゐない藻刈船。/「もし」と誰やら呼んだので/うしろを見れば堤(どて)の上、/黒いベールに、傘さした/西洋人のお婆さん。/「もし、もし、日本の少年さん、/ちょいとわたしを向(むか)ふまで/乗せてわたして下さいな」/「イエス オーライ 心得た」/そこで水竿(みざを)を取りなほし/直ぐにわたしてやったのさ。/「アイ サンク ユー ベリ マッチ」/その婆さんはよろこんで、/手提(てさげ)の中のこの本を/僕にお礼にくれてった。/読めもしないに、本箱に/赤い詩集のあるわけが/どうだ、はっきり判ったか。」
私がまだ小学生だった頃、母方の伯母に貰った少年詩集の中にあった詩です。何度も読んだのでしょう、何十年も経った現在でも「読めもしないに本箱に/英語の詩集の在るわけを/ひとつ話して聴かさうか。」や「「イエス オーライ 心得た」/そこで水竿(みざを)を取りなほし/直ぐにわたしてやったのさ。」などの文章は覚えています。
私の書棚にも少年船頭と同じように「読めもしない」外国の言葉で書かれた本があります。極彩色の仏像や仏教画を集めた中国語の本、“赤壁”という言葉だけが読める中国の書の名家が書いたと思われる折り畳み式の書道の教本のようなもの、その他イタリア語、ノルウェー語、インドネシア語、タイ語の本もあります。中味は読めず、単に絵や字面を眺めるだけです。フランス語、英語の本も少し残されていますが、多分手に取ることはないでしょう。
本を知識を得るためのもの、情操を豊かにするためのものと考えますと「読めもしない」本など書棚の場所を占拠するだけの厄介者でしょうが、厄介者にも何か意味がありそうに思い、少年船頭がしたのと同じように処分することなく残してあります。
少年船頭は“赤い詩集”を見るたびに「黒いベールに傘さした西洋人のお婆さん」を思い、彼女との遣り取りを思い出しているのでしょう。私も「読めもしない」本を眺めるときには、いつもその本を入手した情景やそれに伴ういろいろなことを懐かしく思い出しているのです。
そうそう、何時か読んだ本の中に「積ん読」の効用について楽しく書かれた文章があったのを思い出しました。机の上に積んだ本からは何かが発散されて知らず知らずその本のエキスが頭の中に入る、というものです。本当かなとは思いますが、机の上にあれば知らず知らずに手に取ることはあるでしょう。適当な頁から読み始めるかも知れません。そして何かを得る可能性もあります。書棚に置かれた「読めもしない」本からも同じように何かが発散され私の心の中に入ってくれれば嬉しいのですが。