「本を書く」

「本を書く」

muca(2026年1月7日)

 図書館でタイトルに惹かれてつい手にした小さな本である。
 多忙でもあったが、貸出期間の3週間では読み終われず、一旦返却しては借り直すというのを続けて2回やってしまった。

 魅力的な仕事場は避けるべきである。部屋には眺めなど要らない。そうしておけば、想像力は暗闇の中で記憶にであうことができる。
   …
 西アフリカの格言に「智慧の始まりは、頭上に屋根を得ることである」というのがある。
   …
 原稿にはいつもの苦しみ、すなわち、血の滲んだ痕跡、歯型の跡、裂け目、焼け焦げの跡があった。

 私は半日か1日で書き上げなければならないブログに追われている。書くことが浮かばなくて苦しむということもないけれど、気が散る要素がなにもない環境というのはたしかに生産性がよさそうである。

 A・E・ハウスマン(イギリスの古典学者、詩人)は、「私が詩作をするのは、たいていからだの具合が悪いときである」という態度を保持した。これもまたよくわかる。本を書くには、元気すぎて困るということもある。

 私は元気すぎるときは気が散りやすくて書くことに集中しにくいが、こういうことを言っているのではないのだろう。

 書くとき、あなたは言葉を一列に敷く。並び置かれた言葉は坑夫のつるはしである。あなたはそれを駆使して道を敷き、その道をたどる。しばらく行くと、自分が新しい領域にいることに気がつく。そこは行き止まりだ。
   …
 残念なことに、取り払わなければならないのは、たいてい支柱となる壁なのだ。どうしょうもない。解決法はただ一つだ。あなたはそれに気がつき、呆然とする。だが、いたしかたない。たたき壊すのだ。さっと身をかわして。

 彼女の言うとおりだ。私の場合は書くのに少々時間が要るのはコラムしかないが、何行も削除するしか打開する術がないことがある。

 第三章で、(ハロー海峡の過疎の島の)小屋を書斎として使わせてもらって本を書き上げ、薪割りを覚えたと書いているところがあり、そこが実に面白かった。

 ソローは暖炉の薪は二度人を暖めると言った。薪割りを自分でしたからである。私の薪は同じ理由で私を二度凍えさせた。私は凶暴な北西の風の吹き荒れる表に出て、仕事時間に必要な分だけのハンノキを割った。その労働は私を暖めるには足りなかった。ストーブに薪をくべたが、熱は全部煙突から逃げていってしまった。
 私は薪の割り方を知らなかった。薪割り台の上にハンノキの太い幹を乗せて格闘した。ハンノキは細かい木端になって砂地に飛び散り消え失せた。
 行儀がよくて薪割が上手な島の男たちの一人ボブは、私が薪割りをしているあいだ、口にしたたった一つの言葉は、「おれはアニーの薪割りを見るのが好きだったなあ」だった。
 ある晩、私は夢を見た。「狙いを定めるのだ。薪割りの台に」と夢は告げた。本当である。こうすると極寒の中、いとも簡単に一日に必要な分の薪をわずか2、3分で割ってしまうので、全然体は暖まらない。暖かくなるたった一つのチャンスを逃がしてしまうのだ。
 薪割りのコツは、私が夢から学んだ唯一の “役に立つこと” だった。だがこの天啓に対する私の態度は完璧に感謝に満ちたものとは言いがたかった。島のコメディは終わった。みんな自分の仕事に戻らなければならなかった。そして私は決して暖まらなかった。

 長い引用になってしまったが、こういうのが私を簡単に笑わせてしまうのだ。

 ここからは、狭い部屋で作家と作品のあいだになにが起きるのかということに関する考察である。
   …
 まず、頭の中にある芸術作品についてのヴィジョンを形作るのだ。…この想像上のものに関する最初の刺激を受けてから、すぐにあなたはいくつかの考え方を加え、今度は熟成するのを待ってできるだけ慎重にそれを養い育てる。
   …  作品はもちろんヴィジョンそのものではない。…それはむしろ類似形であり代りのものである。
   …
 苦しみ抜いて生み出される難解な文章でゆっくりと埋められていく紙。可能性の純粋さに満ちた紙。命取りの紙。あなたはその紙にありったけの生きる力をもって集めた完全にはまだ及ばない秀逸な文章を刻み込むのだ。その紙があなたに書くことを教えてくれる。
 他の言い方もできる。薪割り台をめがけて斧を振り下ろすのだ。薪をめがけてはだめだ。薪を通過し、薪の下の台をめがけるのだ。

 彼女の言うヴィジョンとは、天性によって与えられているような鋳型などではない。作品それぞれに真剣勝負があり、選びつくした言葉であり文章なのであろう。

 有名な作家が1人の学生に次のような質問で引き止められた。「私は作家になれると思いますか」
「そうですねえ」と作家は答えた。「わからない……。君は文章が好きかね」
 学生が驚いているのが作家にはありありとわかった。
   …
 もし彼が文章を好きなら、私が知ってる絵描きのように、彼ももちろん始めることができる。私がどのようにして絵描きになったのかと尋ねると、その絵描きは「絵の具の匂いが好きなんだ」と言った。

 これは、一番大事なことが何なのかを私に教えてくれているように思う。理屈なしに熱中できるものこそが自分に向いているのだ。

 ヘミングウェイは、手本としてクヌート・ハムソンとイワン・ツルゲーネフの文章を勉強した。アイザック・バシェヴィス・シンガーもまたクヌート・ハムソンとイワン・ツルゲーネフの文章を手本に選んだ。ラルフ・エリソンはヘミングウェイとガートルード・スタインを学んだ。

 ヘミングウェイの文章が好きだった私は、この項を読んで図書館からクヌート・ハムソンの作品「ヴィクトリア」を借りた。
 期待外れだった。
 文章よりも物語に注意がいってしまい、その物語も面白いものではなかった。

 アニーの書いたものをもっと読みたいと思い、「ティンカー・クリークのほとりで」を借りた。けれど、あいにく年末近くだったので年賀葉書のことを忘れていた。葉書を書くのに没頭していてはこの本は読めない。一旦返却してまた借り直すことになる。
 アニーは私と同い年だ。どことなく身近に感じてしまう存在から受ける刺激は格別だ。