「モラルの話」

「モラルの話」
M・M(2026年4月29日)

 翻訳家くぼたのぞみさんを好んで読む。
 特にJ・M・クッツェーの本。この短編小説も最高に良い。シニカルでコミカル。うなずき、クスッと笑ってしまう。
 短編のそのひとつひとつの文章の中に、共感しうる箇所が多い。クッツェーが伝えたいことがビシビシとくる。

「ひとりの女が歳をとると」の章

 息子と娘が老母の将来を考え、ある都市に集まり会話を重ねる。
 息子の考え、娘の考え、老母の考え。(老母=作家エリザベス・コステロ)

 短編七つの話のうち発表時期がいちばんはやく、初出は2003年。
 ニースに集まった息子ジョンと娘ヘレンが老母エリザベスとかわす会話が「歳をとる」というテーマを中心にコミカルに、辛辣に展開される。親としての自分にも鋭い光をあてて、真実を明確なことばにしようとする作家コステロの面目躍如、となるとクッツェーのカウンター・エゴであるコステロの土壇場で、作家の脳内シアターで登場人物たちの台詞が熾烈に炸裂する。  クッツェーの現在地(解説のような章=くぼたのぞみ)

 老母エリザベスの勘はするどい。年齢を重ねるとおおよそ子どもの考えは予想がつくもの。
「あの二人はなにかたくらんでいる」と考える。そして、「私を頑固者である」と。
 子どもも老母も愛にあふれている。

 それでも彼女は古代ローマの貴族が毒杯を手渡されるのを待つような気分。内密のかぎりをつくした、この上なく同情的な言い方で、世のため人のため、ガタガタ言わずに杯を飲み干せ、と告げられるのを待つような、そんな気分だ。

 私は苦笑してしまった。しかし、なんと表現がうまいのだろうか。
 エリザベスは言う。

 歳をとってどきっとするのは、むかし、老人の口から出るのを聞いて自分は絶対に言うまいと思ったことばが、自分の口から飛び出すこと。世の中いったいどうなってるのみたいな。

 またしても私は将来の自分を想像して苦笑した。そうなるのか、そうでないのかはわからないが、多少ひねくれた性格の私なら、この文章を読んだことで「世の中いったいどうなっているの」とは言わないでおこう、とするはずだ。

 ジョンとエリザベス、ジョンとヘレンの会話は時に時間や場所をかえて続く。
 ジョンの家族構成、ヘレンのそれを思い浮かべるエリザベス。なごみの時間にはトランプもする。

 ジョンはアメリカに家族で住まう。エリザベスは言う。

 わたしはお説教をする立場にはないけれど、だってオーストラリアの生まれですから、進んでアメリカのご主人にこびへつらい、言いなりになるオーストラリアの。そうは言っても、忘れないでほしいのは、あなたの招待はわたしに生まれた国を離れて大魔王の腹のなかに居を定めよ、ということで、そうするのをわたしが躊躇するかもしれないってこと。

 はっきりものを言うエリザベス。この次の文章がこれ。

 40年前に彼が生まれたときにあたえられた頭蓋の内部で、プディングとゼリーのアマルガムを塗りたくっているらしい。 … そして、老いゆく親をどうしたものかと思案しているのだ。

 子どもとは、おのれがつくりだしたものと言わんがばかりの表現の文章に私はうなった。そして、ジョンがかわいらしく思えた。
 読み手の私には、二人の気持ちがよくわかる。それにしても、エリザベスはてごわい。ジョン、今回はお手上げですねと同情する私。

 エリザベス評ジョン

 そう言えば、すぐにむくれる子だった。むくれた子をなだめすかすのに何時間もかかったんだった。陰気な親の息子。

 親はよくわかっているのか。

 この章の終わりは、いっしょに美味しいご飯を食べる、エリザベスの提案で閉じられる。そうだね、ジョン。ひとまずご飯にしようと私は内心ジョンに寄り添う。

 エリザベスはクッツェーのメタフィクション的な分身と言える女性作家である。男性作家クッツェーは女性作家エリザベスに語らせているわけだが、エリザベスを男性的と思う表現が見受けられることはまずないと私は思う。

 最後にこの短編小説は出版の経緯が込み入っている。クッツェーは英語が世界を乗っ取っていくやりかたが好きではないと言う理由で、オリジナルの英語版より先にスペイン語版、日本語版が出版されることになった。さまざまな経緯があり作家自身の強い意志が働いているようだ。クッツェーの気持ちを尊重したい。