面白くて、そして哀しみも
muca(2026年7月1日)
ケアホームで生活するヘンドリックが書いた日記、という形式のこれを読み始めたときは、創作に違いないと思った。気が利いた皮肉とユーモアのせいで。
ヘンドリック・フルーンが匿名というのは、気を持たせるための方便だと思っていたのである。
ヘンドリック・フルーンが匿名というのは、気を持たせるための方便だと思っていたのである。
このケアホームの気の合う仲間でオマニド(「年寄りだが死んではいない」の頭文字の)クラブを作って、彼らで月に2回ほどエクスカーション(観光地などへの遠足)を楽しむ。
本の冒頭にヘンドリックが「親愛なる日本の皆さんへ」として、( <オマニド> という言葉は少し日本語的に聞こえますね)と書いている。オランダ語では「oude maar niet dood」だったのだろうか。
ある日のエクスカーションの訪問先「キューケンホフ公園」でのエヴァート(ヘンドリックの親友)の疑問
「日本人がまた陽気に写真を撮りに来ているということは、津波の後片付けは済んだのだろうか?」
東日本大震災はオランダにも大きな衝撃を与えていたことを知ったのと、この疑問は日本人への厳しい見方の現れかと感じた私は落ち着かない気持ちになる。
子どもは1日に約100回笑うそうだ。大人は15回ほど。
……
自分自身も他人も、愛想笑いが多いということに気づかざるを得なかった。人は親しみを示すため、自分が面白いと思っていないことを示す勇気がないため、あるいは会話を避けるために、笑うものなのだ。
……
自分自身も他人も、愛想笑いが多いということに気づかざるを得なかった。人は親しみを示すため、自分が面白いと思っていないことを示す勇気がないため、あるいは会話を避けるために、笑うものなのだ。
私の場合、心から笑うことはほとんどなくて、愛想笑いか微笑むくらいかと思う。こういうふうに、私はどうなのだろうと考えさせてくれる箇所が随所にある。
なぜテレビは人の衰えた姿を、あざとく愉しんで見せようとするのだろうか? なぜ自分たちの <すばらしい仕事仲間> に対して、かつての偉大な人物の衰えた姿を見せるのは恥知らずで敬意に欠けたことだ、と誰も発言しないのか?
そういう場面に出くわしたら、私はいつもテレビを消すのだが、映像が頭から離れない。
そういう場面に出くわしたら、私はいつもテレビを消すのだが、映像が頭から離れない。
私はあまりテレビを見ないが、日本の番組でそういう感じを受けたような記憶はない。他国と日本とでは違いがあるのかもということを意識させられた箇所のひとつ。
書き続けるというのは容易なことではない。テーマがおのずと見つからない時もあるし、言葉づかいにも慎重になる。だが書くのが義務だと観察眼が鋭くなるし、ものごとに注意するようになる。誰かがおかしな発言をしたら、覚えていようとする。
彼は小さなメモ帳を携帯していて、目立たないように書くそうである。
ヘンドリックの日記には及ばないが、私がコラムやブログに書くものも、「観察眼が鋭くなり、言葉づかいに慎重になる」のは共通しているように思う。
ヘンドリックの日記には及ばないが、私がコラムやブログに書くものも、「観察眼が鋭くなり、言葉づかいに慎重になる」のは共通しているように思う。
気持ちを奮い立たせてまた日記を書こう。自分のために。紙に心のうちを明かすと、その事柄から適度な距離を取ることができ、また素直な自分に戻れる。
これもなるほどと思わせられる。私の場合、適度な距離というのは自分の目線ではなく、読者の目線を意識するということなのだが。それが素直な目線にさせてくれるのかも知れない。
「たしかに今は不確かな時代だ。人生は5000ピースのジグソーパズルを見本なしに作るようなものだ!」これも悪くないセリフだ(私が考えたものだが)。
試したことはないが、ジグソーパズルは見本がないと、とてつもない難度だろう。今の時代の人生になぞらえた著者のこの言葉は有名になったらしい。
新米のクラウウェル氏は骨の髄までネガティブで、あらゆることに不平を言う。彼とバッカー氏は当施設の <石と骨> コンビだ。
この “ <石と骨> コンビだ” に続けて、丸括弧の中に、1/4の大きさの字で2行の 注 が書かれていた。この小さくて読めない 注 が結構あっていらつくが、これを虫眼鏡で拡大したら「大騒ぎして嘆くことを <石と骨で嘆く> という」だった。
<石と骨で嘆く> もだが、文章の途中に小さく挿入するものを「割注」というとは知らなかった。この二つは覚えておこう。
<石と骨で嘆く> もだが、文章の途中に小さく挿入するものを「割注」というとは知らなかった。この二つは覚えておこう。
それから下でエルテンスープを飲んだ。私はおいしく感じたが、頼んでもないのに母親や祖母が昔もっとおいしいエルテンスープを作ったという話を十人もの住人から聞かされた。いつでも決まって 昔……、たまには今日を生きたらどうなんだ、ミイラたちよ。
エルテンスープは、オランダのえんどう豆のスープと、注がある
「たまには今日を生きたら…」とは全然違うのだが、仲間内のブログで、記事に直接関係のない自分の話をコメント欄に書きたがる心理について考えてしまう。
面白く読みはじめたものの、悲しい出来事や別れにもしみじみとさせられる。私にとって、この「…素晴らしき日々」は、他人ごととして読んでいられない日記だった。