読書周りの“あれこれ”

読書周りの“あれこれ”
麻(2026年5月13日)

 読書周りの“あれこれ”についての独り言を書いてみようと思います。今までに読んだ雑多な数多くの書物から教えられた“あれこれ”です。現代社会のいろんな場所で活躍されている若い人びとにとっては「うざい」「うるさい」「めんどう」「上から目線」などと言われそうでちょっと躊躇しますが、本好き老人の「たわごと」を纏めてみます。

 若い頃は、本を選ぶに際してはその時点での私の問題意識、疑問、目的に沿った本、その一冊を読めばその時点でのこれらがある程度解決できるような本を書評などを参考に慎重に選んでいました。この考え方自体は間違っているとは思いませんが、社会生活の経験を積んでからは考えが変わりました。
 選んだ一冊を熟読するよりも関係がありそうな本を複数冊選び、読み比べる方がいいのではないか、一つの例として易しく書かれた本、一般的な本、専門的な書物を買い、全体を俯瞰しつつ細かな論点についても目配りする方がよいのではないか、と思うようになりました。こうすることにより、一面的な見方に陥ることがなくなったように思います。

 このようにしていろんな著者のいろんな本を読み続けていきますと、なんとなく好きな著者、文体・表現力・論理の進め方などいろんな意味で自分に合っていると思われる著者に気が付きます。私はこのような著者の本を選んで読むことを続けました。次にその著者が自らの著書の中で褒めている、あるいは尊敬していることが判る人物の書物にも手を出しました。このようにして読書の幅が広がって行きました。ただ、このような方法を続けますと、読書範囲が偏る心配があります。これは読書好きの友人との会話で補いました。読書談義の際に友人が薦める書物は取り敢えず読むこととしました。勿論、私が信頼できると思った書評の助けを得て読書範囲を広げたことも多くありました。

 寸暇を惜しむ、とは言い難いのですが、私は空いた時間や車中で読むためにいつも文庫本の随筆集や短編集を持ち歩いていました。当時のモーレツ企業戦士として四六時中仕事のことを考える習慣から脱するためもありました。先輩の中には、常に歳時記を持ち歩いている方がおられました。歳時記は短い時間でも読めるし、それを直ぐに役立たせることもできるのが理由だとか。

「読書は内容ではなく味わい」と教えられたときには、ある意味安心しました。特に小説ですが、本を読んで暫くした後にその内容や感想を他人に話そうとして、きっちりと話すことができないのにいつも忸怩たる思いがありました。ちゃんと読書をしていないのではないか、丁寧に読んでいないのではないか、ということです。読書について「内容そのものより、内容を包み込んでいる著者の味わい、ニュアンス、雰囲気といったものによって、実際は読書しているのである」という文章を読んで安心したことです。「記憶に定かではなくても、読んだものは味わいとして、自分の神経のうちに無意識に貯えられている」そうです。確かに、ある文章を読んで司馬遼太郎さんの文章だ、これは池波正太郎さんの言葉だ、谷沢永一さんの意見だ、曽野綾子さんの本からの抜粋だろう、などと感覚的に分かるのはその味わいが心に残っているからでしょう。