阿久悠の「作詞入門」
麻(2026年5月20日)
作詞をしよう、作詞家になろうと思っている訳ではありませんが、2007年8月に亡くなった阿久悠さんが1972年に上梓された「作詞入門」を読みました。50年以上前に出版されたこの本は当市の図書館にはなくレファレンス担当の司書さんが連携している他市の図書館から借り出して下さいました。
この本を読もうと思ったきっかけは、私が読書の師と勝手に思っているある学者の著書にこの本について「これは昭和40年代の時代思潮に関する俊敏そのものの観察であり、また一般に語句の表現効果についての見事な分析であり‥‥‥」と書かれていたことについ最近、気が付いたからです。何度も読み返し、あちらこちらにポストイットが貼られている本のなかのこの文章については今まで気が付きませんでした。
それともう一つ、読書好きの友人との何十年も前の会話の中で彼が阿久悠のことを話題にしていたことを思い出したからでもあります。彼が阿久悠について何も知らない私にどのような話をしてくれたのかは今では思い出せませんが、かなり肯定的な表現で語っていたことだけは覚えています。
また、「パイプくわえて 口笛吹いて」を例に挙げての「歌謡曲といおうか、流行歌といおうか、とにかく歌の詞はくだらない」と言う人に対して「何がくだらないかをたずねてみると、‥‥‥低劣。支離滅裂、非論理性。無益。‥‥‥パイプをくわえながら、どうして口笛が吹けるのだ。‥‥‥その人たちは、いまだに、歌詞というものは、そういうものだと思いこんでいるのである。逆に言えば、数万曲だか数十万曲の詞のなかで、テキが突っ込み得る材料はそれしかないということもできるのだ。実に立派なものではないか。」と書き、歌謡詞は非常に変わってきていると次のように述べています。
この本を読もうと思ったきっかけは、私が読書の師と勝手に思っているある学者の著書にこの本について「これは昭和40年代の時代思潮に関する俊敏そのものの観察であり、また一般に語句の表現効果についての見事な分析であり‥‥‥」と書かれていたことについ最近、気が付いたからです。何度も読み返し、あちらこちらにポストイットが貼られている本のなかのこの文章については今まで気が付きませんでした。
それともう一つ、読書好きの友人との何十年も前の会話の中で彼が阿久悠のことを話題にしていたことを思い出したからでもあります。彼が阿久悠について何も知らない私にどのような話をしてくれたのかは今では思い出せませんが、かなり肯定的な表現で語っていたことだけは覚えています。
昭和40年代に青春を過ごした男女にとって親しい歌詞を豊富に例に挙げての、時代思潮の説明や解釈はとても説得力があると共に、現代から遡ってみてもその時代の特徴をとてもよく表していると思ったことです。
また、「パイプくわえて 口笛吹いて」を例に挙げての「歌謡曲といおうか、流行歌といおうか、とにかく歌の詞はくだらない」と言う人に対して「何がくだらないかをたずねてみると、‥‥‥低劣。支離滅裂、非論理性。無益。‥‥‥パイプをくわえながら、どうして口笛が吹けるのだ。‥‥‥その人たちは、いまだに、歌詞というものは、そういうものだと思いこんでいるのである。逆に言えば、数万曲だか数十万曲の詞のなかで、テキが突っ込み得る材料はそれしかないということもできるのだ。実に立派なものではないか。」と書き、歌謡詞は非常に変わってきていると次のように述べています。
それどころか、ぼくは何よりも的確に時代をとらえ、しかも、スケッチや模写に終わらず、その時代に対するアッピールや、時代に対する期待や危機感をも表現し得ているものは、これしかないと断言できるほどなのである。政治家の政治理論や、文学者の日和見論文よりは、利権や見栄がからまないだけ、よほど、真実にふれているはずなのである。‥‥‥それとは別に、日本人のつまらなさ、余裕のなさというのは、実は、この“パイプくわえて”を許さない精神ではないかと思っている。
としています。
そして「低劣。支離滅裂。非論理性。無益。ということも、心の持ち方しだいでは、大衆性。飛躍。超論理性。無害。こうも書けるのである」と一面的なものの見方を批判し、「楽しむことの苦手な人々に、ショックを与えてやるのも、これからの作詞家の任務ではないかと思う」としています。
そして「低劣。支離滅裂。非論理性。無益。ということも、心の持ち方しだいでは、大衆性。飛躍。超論理性。無害。こうも書けるのである」と一面的なものの見方を批判し、「楽しむことの苦手な人々に、ショックを与えてやるのも、これからの作詞家の任務ではないかと思う」としています。
また、レコード会社の人からの「日本には、どうして『愛の讃歌』のような歌ができないのだろうか」との質問に対しては
日本には、恋も愛もないのではないかと考えている。あるのは男と女の縁(エニシ)であったり絆(きずな)であったりで、恋というのとは、また違う気がするのだ。非常に便宜的に、恋とか愛とかということばで表現しているが、内容的には、ほとんどが「縁」であり「絆」である。‥‥‥男と女の間にしか存在しなかったことばである愛が、人間同士であったり、国に対してであったり、自然に対してであったり、そのような形で表現されてきた近頃、ああよかったな、と思うのである。‥‥‥「日本にも『愛の讃歌』を」ということばも、やがて、実現するのではないだろうか。
と答えています。
例に挙げられた数多くのヒットした(私もよく知っている)歌詞を解説した文章では、その時代の風潮、思潮を鋭く分析した説得力のある論を展開しています。私は何も考えずに「いい歌だなあ」と聞いていたのですが、私が「いい歌」と思ったのはその根底にある時代やその風潮、思潮を分析し、それを表わす詞に心が揺すぶられていたのでしょう。
また、詞テーマの選び方として「時代の飢餓感をとらえる」ということが書かれていましたが、これについては
‥‥‥現代においては、物質がありすぎることが飢餓なのである。‥‥‥焦土の中では花売り娘は夢だった。半鎖国状態の中ではマドロスは唯一のボヘミアンであり、夢だった。‥‥‥不景気の時にナンセンスソングがはやり、今年(七二年)のような騒然とした時代にはやさしさを求めようとするものなのである。
と喝破しています。
と喝破しています。
この本を通読して感じたことは、この本は「懇切丁寧にヒットソングの技法、作詞のテクニックを教える本でありつつ、それを超えての人生論であり、更に昭和40年代の時代思潮の分析を述べている稀有な書物である」というものでした。かつて私に阿久悠さんについて熱く語ってくれた友人はこのことを言っていたのかも知れません。
阿久悠の最後の詞である20編は私の書棚に置かれている「路地の記憶」(佐藤秀明、小学館)という写真集に収められています。その最後に置かれているのは「風鈴冬に泣く」と題された「チリリ チリリ チリリ/風鈴冬に泣く/巡礼が通り過ぎるように/チリリ チリリ チリリ/眠れない男が窓を開け/空を見る/寂しいってこういうことかな/一体どこの家の/冬の風鈴なのか」です。
この文章を書き上げて半年ほどが経過した頃、この「作詞入門」が岩波現代文庫(2009年9月16日刊行)にあるのに気が付きました。発行後40年近く経ってから別の会社で復刊されていたとは思わず新刊をチェックしなかったのが残念です。
阿久悠の最後の詞である20編は私の書棚に置かれている「路地の記憶」(佐藤秀明、小学館)という写真集に収められています。その最後に置かれているのは「風鈴冬に泣く」と題された「チリリ チリリ チリリ/風鈴冬に泣く/巡礼が通り過ぎるように/チリリ チリリ チリリ/眠れない男が窓を開け/空を見る/寂しいってこういうことかな/一体どこの家の/冬の風鈴なのか」です。
(追記)
この文章を書き上げて半年ほどが経過した頃、この「作詞入門」が岩波現代文庫(2009年9月16日刊行)にあるのに気が付きました。発行後40年近く経ってから別の会社で復刊されていたとは思わず新刊をチェックしなかったのが残念です。