オランダ紀行と二人の画家の家

オランダ紀行と二人の画家の家
麻(2026年6月3日)

 司馬遼太郎の「街道をゆく」全巻は全て処分したと思っていましたが、つい最近その35巻目の「オランダ紀行」だけが手元に残されているのに気が付きました。多分、現役の頃にゴールデンウイークを利用してベルギー・オランダを訪れるに際し航空機の中で読む本として、あるいは旅行案内書を補完するものとして書庫から取り出し、使用後はそのまま別の場所に仮置きして長期間そのままになっていたのでしょう。処分に先立ってざっと目を通しましたが、内容を全く思い出せず、新鮮な気持ちで読めたのには我が事ながら呆れました。

 この中で書かれている「レンブラントの家」と「ルーベンスの家」は、私は共に訪れています。司馬さんはいずれも10頁ほどを費やして画家それぞれの家について書いています。
「レンブラントの家」では

 家屋としては一六〇六年に建てられ、一六三九年、三十三歳のレンブラントによって買い取られた。道路に面して十二の窓をもつ三階だての家で、小さくはない。‥‥‥この家を手放すまでの十九年間はかれの人生でいちばん充実していた時期で、愛妻サスキアとここに住み、その若い死を送り、名作「夜警」も、ここで描いた。いま「レンブラントの家」とよばれるこの建物は、かれの記念美術館となっている。レンブラントは銅版画(エッチングとルビが振られている)もすばらしいが、こんにち遺っている二百八十枚のうち二百四十五枚がここで保存されている。

と説明しつつ、「かれは“人間”の採集者だった」とそこに残された銅版画について自らが感じたことを述べています。ここで買った風車とそれに付属する建物を描いた銅版画の複製は、いまこの文章を書いている私の机の前の壁に飾られています。
 夕刻に訪れたせいか、記念美術館には訪問客もほとんどいなく、展示されている絵画だけでなく、家具や絵画の素材として彼が買い集めた諸々のコレクションも含め、展示物を独り占めし、ゆっくりと眺めることができましたが、これらコレクションは晩年には破産同然だったと言われている彼の生涯を象徴しているようにも思えたことです。

「ルーベンスの家」について司馬さんは

 アントワープに、ルーベンスの家がある。行ってみると、堂々たる邸館であった。三十二歳で結婚したかれは、しばらく妻のイサベラの実家に住み、ほどなくこの邸館をみずから設計し、死にいたるまでここを家とした。‥‥‥この邸館は、かれの貴族趣味やらイタリア好みやらを満足させたい、というような単純なものではなかった。見学してみると、実に機能的で、絵を描くための工場といってよかった。アトリエは、ホールのように広く、外光が、たっぷり入るようにつくられている。それに大作が多いために、滑車や滑り溝もつくられており、できあがった大型の絵がすぐ外へ搬出できるようにも設計されているのである。注文客と話ができる落ちついた小部屋もあり、また三階はすべて弟子たちの仕事部屋になっていた。いわばルーベンス美術学校が付属しているようなものだった。

と、建物を描写しています。
 建物自体は建てられた当時のものではないようでしたが、庭の一部はそのまま残されているそうです。現在では市立博物館になっています。多くの観光客が訪れていましたが、各国各地の美術館が保有しているルーベンス作あるいはルーベンス工房作の巨大な絵画はここで製作されたのだろうと興味深く建物内部を眺めたことです。

 さらに、このオランダ紀行では司馬さんはレンブラントの有名な「夜警」や「テュルプ博士の解剖学講義」についての裏話的な話を書かれていますが、これは面白く読みました。私は双方の絵を見ていますが、いずれも素晴らしいものでした。ただ「テュルプ博士の解剖学講義」については、解剖の対象として描かれているのはアリス・キントという名の死亡した死刑囚だそうですが、現代ではこのように死者を描くことは倫理上問題ではないかとの指摘がなされるのではと思ったことです。司馬さんは「観察することに病的なほど熱心だったレンブラントのことだから、キント氏が解剖台に横たえられるときから仔細に見つづけたであろう。かれは死者に対してしずかな敬意をこめ、死者のみがもつ独特の威厳を描出している」と書いています。