結婚するまでの私がひとり旅をしなかった、できなかったのは、私の性格によるのかそれとももっと魅力的な何かがあったのか、今では思い出せませんが、多分経済的な理由が主だったのでしょう。手許に残っているひとり旅に関する書物を「書かれている内容は時代遅れ」「データは古い」「もう役には立たない」と思いながらも捨てられないのは、そこには何かがあるからでしょう。
ポマンダーを知ったのも、romarinというフランス語を知ったのも、一千万人の海外旅行時代という文章を見て驚いたのもこれらの本からでした。その後、ポマンダーは英国の老舗百貨店で探し求め現在でも私の書斎で芳香を放っていますし、散歩道でローズマリーを見るとちょっとキザにromarinと口に出すようにもなりました。そして日本旅行業協会のデータではコロナ禍直前の2019年には日本人出国者数は年間二千万人を超えています。
手許にある新書版に限定し「ひとり旅」をタイトルの一部にした書物は「ひとり旅の手帳」「ひとり旅は楽し」「海外ひとり旅」「ひとり旅の楽しみ」「『極み』のひとり旅」「食い道楽ひとり旅」「ひとり旅の設計」「ローカル線ひとり旅」「ひとり旅の知恵」などなど多彩です。
「可愛い子には旅をさせよ」という言葉もかつての「旅によって世の中の辛さや苦しみを経験することにより人としての成長が期待される」とは意味が異なり、現在では「旅は多くの経験、知識や楽しみを与えてくれる」ものになっています。ひとり旅はある意味その究極の形かも知れません。
「比較旅行学 理論と実際」(林 周二、中公新書)という書物のまえがきで著者は、(私が名前だけを知っている)詩人ジョン・キーツの句「思慮深くして動かぬ者であるよりも、思慮もなく動く者であれ」を引用し「とにかくまず身をもって動き、自らの躰で直接に『一次情報』を採ることの意義を‥‥‥高く評価したのである」と書いています。
確かに現在の私たちが得る情報の殆どは、さまざまな媒体を通じて得られる「二次情報」に過ぎません。著者が言うように「誰か他人の眼、他人の価値観のようなスクリーンを介することで私たちの頭へ注入されてくる『二次情報』」に過ぎないのは事実です。しかし、現在の世の中では一次情報だけでは生活できないのももう一つの事実でしょう。
そういう意味では、ときどきは滝のように流れてくる膨大な(著者の言う)二次情報から離れて、自らの眼で見、自らの頭で考えるための“ひとり旅”は意味のあることかも知れません。
“ひとり旅” をタイトルの一部に選んだ著者たちは全て自分たち一人一人の考えで “ひとり旅” を楽しんでいました。そして私もこれらの “ひとり旅” の著者とその記録を通じて同じ体験をしたのですが、これも二次情報だと言われればその通りです。