三冊ご用意できています
「三冊ご用意できています」図書館司書のNさんが、にっこりと微笑みかけてくる。ここは大津市立北図書館である。私は予約の本を受け取りに来館したのだ。考えてみれば、入院したとき以外は、週二回はここを訪れていることになる。すっかり馴染みの場所という訳である。
私がこの北図書館に通うようになって、七年が経とうとしている。それまでの私は、時折調べ物をする以外、図書館を利用することが殆どなかった。懇意にしている書店があり、定期刊行物の購読をお願いしていた。他に読みたい本があれば、別口で取り寄せして貰っていたのである。
私的な書物ばかりでなく、仕事関係の本や資料等も多かったので、平均するとひと月あたり、四万円程の支払いとなっていた。当然のことながら、蔵書は増える一方である。文藝春秋、大学への数学などの月刊誌や週刊朝日、新潮などの週刊誌を蔵書数に含めると、優に三万冊を越えていたのである。
二十数年前に、三LDKのマンションを購入して十数年そこに住むことになるのだが、六畳程の洋間を書庫として使用していた。琵琶湖に近く、湿気に悩まされてもいたので、除湿機を一台置いていた。二段スライド式の書棚二台、スチール製の書架三台、机の上には文庫本用の木製書棚一台。それでも収まりきらず、押入の中にぎっしりと本の詰め込まれたダンボール箱が十個程積み重ねられていたのである。
昭和四十六年春に、故郷宮崎を後にしてから、数多の転宅を経験して来た。引っ越し貧乏とはよく言ったもので、移る度に家財道具を処分したり、衣服を捨てたり、又、高い引っ越し代を支払うことになる。かくて、僅かな蓄えも霧散霧消するのである。
だが、書物だけは別で置いて行くことも、捨てることもできない。その都度ダンボール箱を手配し、何日もかけて、本を詰め込み、新居に運び込み、荷を解き、書棚に入れ替えるという、気の遠くなるような作業を繰り返してきたのである。三十数年、連れ添ってきた書物もある。蔵書というものは、楽しくもあり、苦々しくもあるのである。
ところが、平成十八年夏、私は、腎細胞癌に倒れた。更に悪いことに、左大腿骨に転移していた。三回の手術、十回の放射線治療、三ヶ月の入院。退院後も、一年間のインターフェロン投与とリハビリテーション。主治医に言わせると、奇跡的に回復した。
その間、嵩む医療費に充てる為に、自宅マンションを売却することにした。それから、現在のアパートに移り住んだのである。
引っ越しの際、食器棚や大テーブル、机や椅子やガスファンヒーターなどの家財道具は勿論、書物も処分しなければならなかった。とても、入りきらなかったのである。
京都の書店に引き取って貰ったのだが、全集や単行本はそこそこに売れたが、文庫本はそうはいかない。ダンボール三十個程が残った。止むを得ない。廃品回収である。トラックに乗せられて出て行く本を見送るのは、我が子に別れを告げるように辛かった。
しかし、移り住んでしばらくすると、私の本の虫が蠢き出す。本を読みたい。買いたい。幸いなことに私の脚でも徒歩五分の距離に、前述の図書館があったのである。
滋賀県は福祉県であり、大津市もそうである。公共施設は充実している。県内の図書数や蔵書数、県民ひとりあたりの貸し出し数、どれをとっても全国有数であり、中には全国一のものもあるやに聞いた。
貸し出しカードを作って貰い、通うようになる。驚いたことに、リクエスト制度がある。新刊本など、自分の読みたい本をリクエストすれば、購入してくれるし、なければ他の図書館や県立図書館との相互借り入れができるのである。最大十五冊まで借りられるし、期間は三週間。本の虫の私には、有り難い限りなのである。
佐賀県の武雄図書館ではないが、喫茶コーナーもあり、車椅子も二台設置してある。何より図書館の方々の熱意や本に対する愛情が素晴らしい。頼りにできる。
先のNさんを始めとして、皆が私の顔を見知ってくれるようになり、彼らの熱意に甘えて読書プランを相談する迄になった。大作、大作家に取り組もうと思った。司馬遼太郎「街道をゆく」全六十四巻が皮切りである。若い頃、週刊朝日の連載を楽しみにしていたし、「近江路」がその口火を切るのも何かの縁である。
途中、読みあぐねたことも返却が遅れたこともあったが、彼・彼女らの優しい眼差しに励まされて、半年かけて読破した。
今は、浅田次郎に取り組んでいる。こうやって、読書の楽しみ、喜びに浸っているが、本を所有するという欲求が沸々と……。あの哀しさも判っている筈なのだが。
私がこの北図書館に通うようになって、七年が経とうとしている。それまでの私は、時折調べ物をする以外、図書館を利用することが殆どなかった。懇意にしている書店があり、定期刊行物の購読をお願いしていた。他に読みたい本があれば、別口で取り寄せして貰っていたのである。
私的な書物ばかりでなく、仕事関係の本や資料等も多かったので、平均するとひと月あたり、四万円程の支払いとなっていた。当然のことながら、蔵書は増える一方である。文藝春秋、大学への数学などの月刊誌や週刊朝日、新潮などの週刊誌を蔵書数に含めると、優に三万冊を越えていたのである。
二十数年前に、三LDKのマンションを購入して十数年そこに住むことになるのだが、六畳程の洋間を書庫として使用していた。琵琶湖に近く、湿気に悩まされてもいたので、除湿機を一台置いていた。二段スライド式の書棚二台、スチール製の書架三台、机の上には文庫本用の木製書棚一台。それでも収まりきらず、押入の中にぎっしりと本の詰め込まれたダンボール箱が十個程積み重ねられていたのである。
昭和四十六年春に、故郷宮崎を後にしてから、数多の転宅を経験して来た。引っ越し貧乏とはよく言ったもので、移る度に家財道具を処分したり、衣服を捨てたり、又、高い引っ越し代を支払うことになる。かくて、僅かな蓄えも霧散霧消するのである。
だが、書物だけは別で置いて行くことも、捨てることもできない。その都度ダンボール箱を手配し、何日もかけて、本を詰め込み、新居に運び込み、荷を解き、書棚に入れ替えるという、気の遠くなるような作業を繰り返してきたのである。三十数年、連れ添ってきた書物もある。蔵書というものは、楽しくもあり、苦々しくもあるのである。
ところが、平成十八年夏、私は、腎細胞癌に倒れた。更に悪いことに、左大腿骨に転移していた。三回の手術、十回の放射線治療、三ヶ月の入院。退院後も、一年間のインターフェロン投与とリハビリテーション。主治医に言わせると、奇跡的に回復した。
その間、嵩む医療費に充てる為に、自宅マンションを売却することにした。それから、現在のアパートに移り住んだのである。
引っ越しの際、食器棚や大テーブル、机や椅子やガスファンヒーターなどの家財道具は勿論、書物も処分しなければならなかった。とても、入りきらなかったのである。
京都の書店に引き取って貰ったのだが、全集や単行本はそこそこに売れたが、文庫本はそうはいかない。ダンボール三十個程が残った。止むを得ない。廃品回収である。トラックに乗せられて出て行く本を見送るのは、我が子に別れを告げるように辛かった。
しかし、移り住んでしばらくすると、私の本の虫が蠢き出す。本を読みたい。買いたい。幸いなことに私の脚でも徒歩五分の距離に、前述の図書館があったのである。
滋賀県は福祉県であり、大津市もそうである。公共施設は充実している。県内の図書数や蔵書数、県民ひとりあたりの貸し出し数、どれをとっても全国有数であり、中には全国一のものもあるやに聞いた。
貸し出しカードを作って貰い、通うようになる。驚いたことに、リクエスト制度がある。新刊本など、自分の読みたい本をリクエストすれば、購入してくれるし、なければ他の図書館や県立図書館との相互借り入れができるのである。最大十五冊まで借りられるし、期間は三週間。本の虫の私には、有り難い限りなのである。
佐賀県の武雄図書館ではないが、喫茶コーナーもあり、車椅子も二台設置してある。何より図書館の方々の熱意や本に対する愛情が素晴らしい。頼りにできる。
先のNさんを始めとして、皆が私の顔を見知ってくれるようになり、彼らの熱意に甘えて読書プランを相談する迄になった。大作、大作家に取り組もうと思った。司馬遼太郎「街道をゆく」全六十四巻が皮切りである。若い頃、週刊朝日の連載を楽しみにしていたし、「近江路」がその口火を切るのも何かの縁である。
途中、読みあぐねたことも返却が遅れたこともあったが、彼・彼女らの優しい眼差しに励まされて、半年かけて読破した。
今は、浅田次郎に取り組んでいる。こうやって、読書の楽しみ、喜びに浸っているが、本を所有するという欲求が沸々と……。あの哀しさも判っている筈なのだが。