読書の楽しみ
定年退職をして、30年ぶりに図書館通いを始めた。以前の図書館通いは、子どもたちと一緒に土曜日が恒例だった。何冊も抱えて帰宅して子どもたちは本を読みふけった。
今は、一人で手提げ袋を持ってのんびりしたものである。
もっぱら借りるのが推理小説。気楽でいい。内田康夫作は、これまで何十冊も読んだ。それでもまだ借りる本がある。ちゃんと調べてはいても、ページを少しめくると「しまった。これは読んでいた」というのが時々ある。彼の浅見光彦シリーズは、何年経っても、主人公浅見光彦は若くて、きれいな女性がまわりに存在する。兄は、ずっと刑事局長であり、安泰そのものだ。何か、浮き世離れをしている気がしても、読んでしまう。
「しまった。これは読んでいた」と一番思うのが、松本清張の作品。読んだ題名と作品が結びつかなくて、覚えていることができない。若いときは、夢中で読んだが、年を取ると彼の作品はきつい。自分で心のひだをじわっじわっと攻められるようで苦しい。身体に悪いので、最近は読まない。
夏樹静子の作品もよく読む。推理小説ではないが、彼女の「椅子がこわい」は心と身体のつながりをモチーフにしたもので興味深かった。腰痛に悩まされて、様々な医者や民間療法でも完治せず悪化の一途をたどったのだが、「腰痛は、精神的なものだ」と診断され「夏樹静子の葬式を出しましょう」と作家生活から遠のくように診断を受けて治療が始まる。2003年に「椅子がこわい」の題名で出版されたが、現在は「腰痛放浪記椅子がこわい」の題名で再版されている。
もちろん、治療の結果「書いてもいい」という診断を受けて作家生活を再開したのだ。
最近、特に借りて読むのが宇江佐真理である。時代物の第一人者と言っていいだろう。つい、最近第16回山本周五郎賞候補となった『あやめ横丁の人々』を読み終えた。「あやめ」だから、花のあやめを想像し、江戸の町人長屋にアヤメが咲く池でもあったのだろうと思った。
が、「あやめ」とは「人をあやめる」ことだった。人をあやめる人たちが住む横丁の話。何とも切ない話だった。
最後の章では、じわっと涙が湧いた。
宇江佐真理さんは、『幻の声 髪結い伊三次捕物余話』を始めとして何度も直木賞候補になった。悲しいことに、この秋に乳ガンで他界された。伊三次の活躍に出会えないと思うと残念である。
図書館に行くと、私と同じ世代の人たちがいっぱいである。思想信条や貧富の差、年齢などを問わず、誰でも利用できる公共図書館のありがたさを思う。
今は、一人で手提げ袋を持ってのんびりしたものである。
もっぱら借りるのが推理小説。気楽でいい。内田康夫作は、これまで何十冊も読んだ。それでもまだ借りる本がある。ちゃんと調べてはいても、ページを少しめくると「しまった。これは読んでいた」というのが時々ある。彼の浅見光彦シリーズは、何年経っても、主人公浅見光彦は若くて、きれいな女性がまわりに存在する。兄は、ずっと刑事局長であり、安泰そのものだ。何か、浮き世離れをしている気がしても、読んでしまう。
「しまった。これは読んでいた」と一番思うのが、松本清張の作品。読んだ題名と作品が結びつかなくて、覚えていることができない。若いときは、夢中で読んだが、年を取ると彼の作品はきつい。自分で心のひだをじわっじわっと攻められるようで苦しい。身体に悪いので、最近は読まない。
夏樹静子の作品もよく読む。推理小説ではないが、彼女の「椅子がこわい」は心と身体のつながりをモチーフにしたもので興味深かった。腰痛に悩まされて、様々な医者や民間療法でも完治せず悪化の一途をたどったのだが、「腰痛は、精神的なものだ」と診断され「夏樹静子の葬式を出しましょう」と作家生活から遠のくように診断を受けて治療が始まる。2003年に「椅子がこわい」の題名で出版されたが、現在は「腰痛放浪記椅子がこわい」の題名で再版されている。
もちろん、治療の結果「書いてもいい」という診断を受けて作家生活を再開したのだ。
最近、特に借りて読むのが宇江佐真理である。時代物の第一人者と言っていいだろう。つい、最近第16回山本周五郎賞候補となった『あやめ横丁の人々』を読み終えた。「あやめ」だから、花のあやめを想像し、江戸の町人長屋にアヤメが咲く池でもあったのだろうと思った。
が、「あやめ」とは「人をあやめる」ことだった。人をあやめる人たちが住む横丁の話。何とも切ない話だった。
最後の章では、じわっと涙が湧いた。
宇江佐真理さんは、『幻の声 髪結い伊三次捕物余話』を始めとして何度も直木賞候補になった。悲しいことに、この秋に乳ガンで他界された。伊三次の活躍に出会えないと思うと残念である。
図書館に行くと、私と同じ世代の人たちがいっぱいである。思想信条や貧富の差、年齢などを問わず、誰でも利用できる公共図書館のありがたさを思う。