夢の中の図書館
私は夢を見ることの少ない人間だと思っているが、ある夜、一つの夢をみた。(「どのような人物でも毎夜いくつかの夢を見ている、ただそれを記憶していないだけだ」との説に従えば、「目覚めた時に前夜の夢の一つをはっきりと思い出したある朝があった」と書くのが正しいのだろうが。)
私は、外国のどこかの大きなお屋敷の豪華絢爛たるロビーの気持ちの良い大きなソファーに一冊の書物を手にして一人で座っている。入口とその反対側のドア部分を除く全ての壁面は天井まで造り付けの書棚で覆われており、そこには革表紙の書物がぎっしりと詰まっている。天井にはフレスコ画が描かれている。
「何処だろう」「つい先日BSテレビの旅番組で見た、欧州のどこかの国の貴族の邸宅の一部屋だろうか」「かつてフェルメールの『ギターを弾く女』を見るために訪れたロンドン郊外のケンウッド・ハウスの図書室もこのような感じだった」、「そうではなく、開け放たれたドアの向こうにも同じような部屋が並んでいることから考えるとどこかの図書館に違いない、きっとそうだ」「とすれば、どこの図書館だろう」などと脈絡なく夢の中の私は考えていた。
そして、そのときに私が手にしていたのは、不思議なことに、十数年前に古本屋で買った紫色表紙の「日本の詩歌」全集の中の土井晩翠や三木露風の詩が入っている、私のお気に入りの巻だった。
目覚めたときには、これらのことしか覚えていなかった。なぜこのような夢を見たのだろう。
何十年も前に「夢を見ることは、脳にとって、何らかの情報整理機能として必要であると思われる」と書かれた文章を読んだ記憶がある。私の記憶とこの仮説が正しいとすれば、この夢は、私の心が未だ読んでいない本を読み新しい知識を得ることよりも、かつて読み何らかの示唆を得た書物を反芻することを欲している、ことを暗示しているのだろうか。
現在の私が希求している読書とは、積読(つんどく)状態である数多くの本に囲まれて、青春時代や壮年時代を思い出させる書物を再読することだ、と教えてくれているのだろうか。
それとも、自由になる時間は充分にありながらも、新しい本や書棚にある未読の本を読む時間が少なくなっている最近の自分自身に対する言い訳がこのような夢になって現れたのだろうか。
書庫の本棚に並んでいたり、机の回りに積み上げられたりしている、読んでいない数多くの書物を眺めながら、暇な老人は、夢の中の図書館を材料にこのような馬鹿げたことを考えた。
私は、外国のどこかの大きなお屋敷の豪華絢爛たるロビーの気持ちの良い大きなソファーに一冊の書物を手にして一人で座っている。入口とその反対側のドア部分を除く全ての壁面は天井まで造り付けの書棚で覆われており、そこには革表紙の書物がぎっしりと詰まっている。天井にはフレスコ画が描かれている。
「何処だろう」「つい先日BSテレビの旅番組で見た、欧州のどこかの国の貴族の邸宅の一部屋だろうか」「かつてフェルメールの『ギターを弾く女』を見るために訪れたロンドン郊外のケンウッド・ハウスの図書室もこのような感じだった」、「そうではなく、開け放たれたドアの向こうにも同じような部屋が並んでいることから考えるとどこかの図書館に違いない、きっとそうだ」「とすれば、どこの図書館だろう」などと脈絡なく夢の中の私は考えていた。
そして、そのときに私が手にしていたのは、不思議なことに、十数年前に古本屋で買った紫色表紙の「日本の詩歌」全集の中の土井晩翠や三木露風の詩が入っている、私のお気に入りの巻だった。
目覚めたときには、これらのことしか覚えていなかった。なぜこのような夢を見たのだろう。
何十年も前に「夢を見ることは、脳にとって、何らかの情報整理機能として必要であると思われる」と書かれた文章を読んだ記憶がある。私の記憶とこの仮説が正しいとすれば、この夢は、私の心が未だ読んでいない本を読み新しい知識を得ることよりも、かつて読み何らかの示唆を得た書物を反芻することを欲している、ことを暗示しているのだろうか。
現在の私が希求している読書とは、積読(つんどく)状態である数多くの本に囲まれて、青春時代や壮年時代を思い出させる書物を再読することだ、と教えてくれているのだろうか。
それとも、自由になる時間は充分にありながらも、新しい本や書棚にある未読の本を読む時間が少なくなっている最近の自分自身に対する言い訳がこのような夢になって現れたのだろうか。
書庫の本棚に並んでいたり、机の回りに積み上げられたりしている、読んでいない数多くの書物を眺めながら、暇な老人は、夢の中の図書館を材料にこのような馬鹿げたことを考えた。