「もう一度 倫敦巴里」
前々回のこの欄で和田誠の「倫敦巴里」を取り上げたが、その後「もう一度 倫敦巴里」(ナナロク社)があるのに気が付いた。
続編かな、と思い手に取ったが奥付の上部に小さな字で「本書は、1977年8月、話の特集より刊行された『倫敦巴里』に新たに……を加え、再編集したものです。著者監修のもと、原画がカラーで描かれていた作品は、カラーで掲載しています」とあり、広い意味での再刊のようである。
ここでは「『もう一度 倫敦巴里』によせて」を書いている清水ミチコ、谷川俊太郎、堀部篤史、丸谷才一各氏の文章から、この本の紹介内容を書き抜く。
清水氏と谷川氏が同じようにこの本に特別な愛着を感じ、堀部氏と丸谷氏が同じようにここに書かれたパロディのすばらしさに言及しているのも興味深い。
清水氏(倫敦巴里リターンズ)は「『倫敦巴里』はすっごく大切に読み返してる本です」で始め「念のために二冊買ってあります。本棚に入れて置く用のと、読み返す用のと」とこの本に対する愛着を述べる。そして人に差し上げるために買おうとするとどこにも売っていないと自らの経験を嘆き、最後に「図書館にあって、アマゾンになくって、ヤフーオークションでは飛び切り高いものなーんだ」となぞなぞを出す。
谷川氏は「やきもき」と題して「『倫敦巴里』が我が家の本棚から行方不明になったことがある。和田誠ファンの何者かが誘拐したのに違いない」で始め「何ヶ月か待ったが消息がつかめず、身代金の要求もなかったから、仕方なくアマゾン河のほとりにある書店に買いに行き、定価の何倍かの金を払って無事本棚に帰還させた」と続け、この本に対する愛着を述べている。
堀部氏(「倫敦巴里」って何なのさ?)は「本書『倫敦巴里』はパロディの対象や引用元を知らずとも楽しめる優れた作品であり、そういうものに触れれば引用元や関係性を知りたくなる。……本を閉じればすぐにでもオリジナル……にあらゆる手法でアクセスしたくなるだろう。『倫敦巴里』はそのような強度を持った時代を超越する書物だ」と激賞している。
丸谷氏(戯画と批評――和田誠『倫敦巴里』)は「パロディが文学の一形式としてすこぶる楽しめるものだといふことは、西欧では常識となってゐるが、わが近代文学では……のほかは、あまり見当たらない。そのなかで和田誠の『倫敦巴里』は、伝統の浅さを克服した秀逸だらう。つまり彼の才能はそれほど豊なのである。たとへば和田は、川端康成の『雪国』の書き出しを、いろいろさまざまな人の文体で書いて見せる。……それが全部が全部ではないにしても、たいてい、なかなかの出来なのだから、舌を巻くしかない……」と書いている。
最後に、次の文章も「雪国」の冒頭文を和田誠さんが、丸谷才一文体によって模写したものであるが、数多くの丸谷才一本を読んだ私には内容も含めて氏の文体の特徴がとてもよく掴まえられていると思っている。特に内容については私は舌を巻いている。
続編かな、と思い手に取ったが奥付の上部に小さな字で「本書は、1977年8月、話の特集より刊行された『倫敦巴里』に新たに……を加え、再編集したものです。著者監修のもと、原画がカラーで描かれていた作品は、カラーで掲載しています」とあり、広い意味での再刊のようである。
ここでは「『もう一度 倫敦巴里』によせて」を書いている清水ミチコ、谷川俊太郎、堀部篤史、丸谷才一各氏の文章から、この本の紹介内容を書き抜く。
清水氏と谷川氏が同じようにこの本に特別な愛着を感じ、堀部氏と丸谷氏が同じようにここに書かれたパロディのすばらしさに言及しているのも興味深い。
清水氏(倫敦巴里リターンズ)は「『倫敦巴里』はすっごく大切に読み返してる本です」で始め「念のために二冊買ってあります。本棚に入れて置く用のと、読み返す用のと」とこの本に対する愛着を述べる。そして人に差し上げるために買おうとするとどこにも売っていないと自らの経験を嘆き、最後に「図書館にあって、アマゾンになくって、ヤフーオークションでは飛び切り高いものなーんだ」となぞなぞを出す。
谷川氏は「やきもき」と題して「『倫敦巴里』が我が家の本棚から行方不明になったことがある。和田誠ファンの何者かが誘拐したのに違いない」で始め「何ヶ月か待ったが消息がつかめず、身代金の要求もなかったから、仕方なくアマゾン河のほとりにある書店に買いに行き、定価の何倍かの金を払って無事本棚に帰還させた」と続け、この本に対する愛着を述べている。
堀部氏(「倫敦巴里」って何なのさ?)は「本書『倫敦巴里』はパロディの対象や引用元を知らずとも楽しめる優れた作品であり、そういうものに触れれば引用元や関係性を知りたくなる。……本を閉じればすぐにでもオリジナル……にあらゆる手法でアクセスしたくなるだろう。『倫敦巴里』はそのような強度を持った時代を超越する書物だ」と激賞している。
丸谷氏(戯画と批評――和田誠『倫敦巴里』)は「パロディが文学の一形式としてすこぶる楽しめるものだといふことは、西欧では常識となってゐるが、わが近代文学では……のほかは、あまり見当たらない。そのなかで和田誠の『倫敦巴里』は、伝統の浅さを克服した秀逸だらう。つまり彼の才能はそれほど豊なのである。たとへば和田は、川端康成の『雪国』の書き出しを、いろいろさまざまな人の文体で書いて見せる。……それが全部が全部ではないにしても、たいてい、なかなかの出来なのだから、舌を巻くしかない……」と書いている。
最後に、次の文章も「雪国」の冒頭文を和田誠さんが、丸谷才一文体によって模写したものであるが、数多くの丸谷才一本を読んだ私には内容も含めて氏の文体の特徴がとてもよく掴まえられていると思っている。特に内容については私は舌を巻いている。
なにがしといふ人の説によると、国境の長いトンネルを抜けるとそこは雪国ださうである。この説はすこぶる評判がいい。言葉にはずみがあるし、むやみに単純で切れ味がいいし、第一わかりやすいからでせうね。おまけに雪が喜ばれるといふ民俗学的状況も見逃がせない。雪が降るのは豊年の前兆で、めでたいものなんです。それに闇のトンネルを抜けてまつ白な世界に出てゆくのは黒の王が白の王によって倒されるのを祝ふカーニヴァルのやうな、祭祀としての性格が感じられ、呪術性が作用する。言ふまでもなく無意識のうちにであるけれど。(以下省略)