ダンス・マカーブル

ダンス・マカーブル

啓(2023年11月1日)

「死者たちの回廊 よみがえる『死の舞踏』」(平凡社ライブラリー、小池寿子)を手に取ったのには格別の理由はない。その小さな理由はただ一つ、新聞の書籍紹介欄の約半頁を使っての「欧州壁画巡り無謀な車旅」という見出しの文章だった。
 ここで著者の小池寿子さんは現存する「死の舞踏」壁画を全て制覇しようとの目論見でヨーロッパ各地を車旅した思い出話を書いている。この文章を読んで「死の舞踏」壁画とは何ぞや、といささかの野次馬根性が芽を出した。
 著者は「免許取得1か月、欧州で初めて運転する私がプジョーを駆って、アルプスを一気に下ったのである」「格安レンタカーを借り、……ローマを出発してアッシジ、ラヴェンナ、フィレンツェを巡る車旅は無謀としか言えない行程であった」と書いている。
 そして思い出話の最後に「1か月余の『死の舞踏』の旅」の理由として「大学時代は 15 世紀ネーデルランド美術の中でもキリストの磔刑を研究テーマとしていたが、恩師からパリ、サンジノサン墓地回廊に描かれていた壁画『死の舞踏』木版画複製本をいただき、大きな方向転換をした」と書きつつ、「しかし、それは決して方向転換ではなかった。死はつねに身近にあり、私にささやきかける『お前もいつか死ぬのだと』」と纏めている。
「死の舞踏」という言葉から私が思い出すのはただ一つ、エストニアの首都タリンにあるニグリステ教会の「死のダンス」画だけであり、ガイドブックにあった「法王や皇帝、皇女、枢機卿、国王らが『死』とともにダンスを繰り広げる様子が描かれています」という説明だけである。その時は、「骸骨と人間がダンスをしているような絵は見たくない」と思い、その教会を横目で見て通り過ぎた。
 図書館から借り出した「死者たちの回廊」を読みながら、現時点ではいささか残念な気持ちもある。
 著者はこの著書の中で次のように書き

 中世の美術において最も重要な部分をなしていたのが、死後の世界の表現であろう。……教会の正面(ファサード)に刻まれた「最後の審判」図と、それにともなう「天国」と「地獄」の図をみた中世の人々は……善生善死の必要性を説きつけられ、それを実践することを強いられたであろう。……ところが十四世紀から十五世紀末にかけての……時期には、死後の世界よりむしろ、人間の死そのもの、つまり死後の姿があからさまに表現されたのであった。

「死の舞踏」という言葉については、こう説明している

「死の舞踏」は、腐乱した屍か、あるいは骸骨に近い状態の死者が生きているものの手をとり、または肩に手をかけ、不気味な笑いを浮かべて墓地へいざなう姿を描いた絵図である。この生者と死者は、交互に配置され、十数人から三十余人がくりひろげる行列をなしており、あたかも舞踏を踊るような足どりと身振りであるため、「死の舞踏」(ダンス・マカーブル、Danse Macabre)という名称を与えられているのである。

 著者も書いているように「死の舞踏」を成立させた背景には、教会分裂、黒死病、百年戦争の三大危機を抱えた現実があったのだろう。
 結果的に字面を追っているような読書、疑問が生じても遡って解決しようなどと思わない読書、微に入り細を穿った説明について感心するだけの読書、となってしまったが、偶にはこのような学術的な文章を読むことも頭脳の活性化のためにはいいものだ、とやせ我慢をしたことである。
 著者の小池寿子さんは自らの処女作が出版後4年にして絶版となったが、本書副題の「よみがえる『死の舞踏』のごとく、今回復刊されたことを喜んでいる。