改装なった図書館とそこでの立ち読み

改装なった図書館とそこでの立ち読み

啓(2023年7月26日)

 最近では「立ち読み」などという言葉は、私にとって遠い存在になっている。品揃え豊富な町の書店の減少の結果立ち読みの機会が減ったこともあるが、視力の悪化がその主因であろうと思っている。ところがつい最近、改装なった図書館で、立ち読みを経験した。
 書店での立ち読みは不思議ではないが、図書館での立ち読みはよく考えるとその理由はない。わざわざ立ち読みしなくても借出せばいい。なぜ、図書館で立ち読みしたのかは不思議である。
 以下にその経緯を書き記す。
 諸橋轍次の大漢和辞典でちょっと調べたいこともあり、改装なった市立中央図書館本館へ行った。かなり前に1年以上かかった耐震・改装工事が終わったことは知っていたが、分館で用は足りていたので特に行くことはなかった。
 我が家からは駅前ビル5階にある図書館分館のほうが少し近いし、周囲に銀行、医院や家電量販店さらには 100 円ショップもあり、序に幾つかの用事も同時に済ませることができる。図書館の予約本も全てこの分館で受け取ることができるように設定している。
 中央図書館本館へは氏神様の参道を上り、途中で左に折れ、氏神様の裏山に造られた公園を突っ切っても行けるが、近道となる新設大学の構内を通り抜けることが多い。「大学構内にある通路を通り抜けること自体は多くの大学にあっては大学当局も認めている」「妙心寺の境内も近所の人々は日常的に通り抜けている」ということを思い、疾しさを少し慰めながら……。
 改装に伴い書棚の配置にも少し変更が見られたが、全体としての印象はそれほど変わってはいない。奇をてらったような書籍・書棚の配置もない。極めてオーソドックスな配置状況である。
 新型コロナウイルス対応の結果か、かつての大きな机を囲み数多くの椅子が置かれていた状況とは異なり、読書用スペースは一人ひとりに区切られている。ここに座って書籍や新聞を読んでいる人物の平均年齢はかなり高い。一方、児童室は子供を連れた若いお母さんで賑わっていた。この風景は私がいつも行く分館と同じである。
 言い古された言葉ではあるが、図書館利用者の二極化という現実は変わらない、と書きつつ、多くの勤め人が訪れることができる夜の時間帯に図書館を訪れたこともないので、ひょっとしたらこれらの時間帯には多くの勤め人が帰宅途中に訪れているかもしれない、と希望的なことも考えた。
 調べたいことは直ぐに解決したが、折角来たのだから何か借りて帰ろうと「あいうえお順」に並べられたエッセイの棚を眺めた。ここからが立ち読みの話になる。
 今回も青木玉、赤瀬川原平、阿川佐和子ときて阿川弘之で目が止まった。約 25 年前に文藝春秋に書かれた文章を集めた「葭の髄から」(文藝春秋)である。
 ぺらぺらと頁をめくっていると「転倒事故始末記」というタイトルが現れたので、6頁ほどのその内容を立ち読みした。このようなタイトルやその内容が気になるのは、私が常日頃から不注意で転倒することを気にしているからに違いない。
 ここには「阿川さんが休養先のハワイで、親しくしている店舗へ雨の中、文藝春秋社からのファックスを取りに行き、店先の濡れた敷石道で転倒し10分間意識を失っていたこと」が書かれている。
 日本人ドクターの診察は「頭部裂傷、左鎖骨骨折、全治六週間」だった。医師は阿川さんに「あまり軽々しく考えてはいけない」と言い、幾つかの注意をした。
 ここからが、私が関心を持った記述である。ハワイに住んでいる日系アメリカ人が異口同音に言ったのは「スー(sue)するつもりか」「スーしなくてもいいのか」「スーをしないで日本に帰ってしまうんですか」だった。阿川さんとしては「自分がそそつかしくて転んで、ファックス取次役にとんだ迷惑をかけた。その上いろいろと配慮してくれた。ご親切ほんとにありがとう」の気持ちだった。
 家族を始め周囲の日本人の反応は「大難が小難ですんでよかった」だったが、長男(ニューヨーク州とワシントン DC の弁護士資格を有し、当時アメリカで活躍していた直之氏のことだろう)だけは違った、とし11行を使ってこのような事件でのアメリカ人の行動と阿川さんが今後とるべき対応についての直之氏の意見が書かれていた。私も家族が同じような目にあったら直之氏と同じようなことを言うだろう、と思いつつ読んだことである。
 最後にこの事件を契機とした阿川さんの日米を比較しての感想が9行に亘って書かれており、その中には「あのフランクで明るくて親切なアメリカの人たちが、自分の利害得失の絡む問題となれば、直ちに弁護士を立ててスーすることを考える。云々」との文章があるが、これにも同意する。
 以上、改装なった市立中央図書館本館とそこでの立ち読みについて書いた次第。