「音」と「訓」
頭の老化を防ぐ目的での漢字の書き取り練習を、妻と合戦の方式でしていて、気になっていることがある。熟語として出てくる漢字は直ぐに書けるのだが、同じ漢字が訓読みで現われると「ん?」と考えることがしばしば起こる。
例えば「前例にナラって処理をする」や「素行のオサまらない弟」などの場合、直ぐには正しい漢字を思い出せない。頭の中で「モホウ(模倣)」「シュウシン(修身)」などと関係のありそうな熟語を思い出し、そこに含まれている漢字から訓読みの漢字を思い出す。漢字そのものは知っているのだが、訓読みでは直ぐに出て来ない。妻も同じ状態のようだ。
この理由は何だろう、と気になっていた。
この欄でかつて紹介した「閉ざされた言語・日本語の世界」(鈴木孝夫、新潮選書)にある「『音』とは何か、『訓』とは何か」を読んでいて、私の疑問について考えるヒントを得たように思った。
そこには
例えば「前例にナラって処理をする」や「素行のオサまらない弟」などの場合、直ぐには正しい漢字を思い出せない。頭の中で「モホウ(模倣)」「シュウシン(修身)」などと関係のありそうな熟語を思い出し、そこに含まれている漢字から訓読みの漢字を思い出す。漢字そのものは知っているのだが、訓読みでは直ぐに出て来ない。妻も同じ状態のようだ。
この理由は何だろう、と気になっていた。
この欄でかつて紹介した「閉ざされた言語・日本語の世界」(鈴木孝夫、新潮選書)にある「『音』とは何か、『訓』とは何か」を読んでいて、私の疑問について考えるヒントを得たように思った。
そこには
例えば水という漢字を考えてみよう。
音は「スイ」で訓が「みず」だということは一体何を意味するのだろうか。これは水という概念が(古代)中国語では「スイ」という音形を持ち、日本語では「みず」という形で音声化されるということに他ならない。そしてこのような音声化を受ける以前の、水の概念そのものは、視覚に訴える「水」という文字で表記されているのだ。
私たち日本人がある漢字の訓と音を知っているということは、とりもなおさずその漢字で示された概念の、二つの別の言語における音的実現体が、同一の文字表記をつなぎとして頭の中で癒着していることに他ならない。
しかもこのような同一の表記をめぐる音と訓との対応関係が、日本語では非常に徹底しているため、……(例が挙げられている)……本来の日本語と外来の借用語である古代中国語の対応という形で記憶されているのだ。
運動や動作を表わすいわゆる動詞についても……(例が挙げられている)……どれをとってみても音と訓が対応している。
音は「スイ」で訓が「みず」だということは一体何を意味するのだろうか。これは水という概念が(古代)中国語では「スイ」という音形を持ち、日本語では「みず」という形で音声化されるということに他ならない。そしてこのような音声化を受ける以前の、水の概念そのものは、視覚に訴える「水」という文字で表記されているのだ。
私たち日本人がある漢字の訓と音を知っているということは、とりもなおさずその漢字で示された概念の、二つの別の言語における音的実現体が、同一の文字表記をつなぎとして頭の中で癒着していることに他ならない。
しかもこのような同一の表記をめぐる音と訓との対応関係が、日本語では非常に徹底しているため、……(例が挙げられている)……本来の日本語と外来の借用語である古代中国語の対応という形で記憶されているのだ。
運動や動作を表わすいわゆる動詞についても……(例が挙げられている)……どれをとってみても音と訓が対応している。
とあった。
私が「ナラって」から「すでにある物事をまねること」を意味する「模倣」を思い出し、「倣って」と漢字で書き、「素行のオサまらない」から「自分の行動や心がけを正しくするように努力すること」を意味する「修身」を思い出し、「修まらない」が書けるのは日本語では「音」と「訓」とが対応しているからだろう。
私のささやかな疑問はこれで解決したように思うのだが、他に理由があるのかもしれない。
鈴木氏は、漢字の学習について次のような文章も残している。
私が「ナラって」から「すでにある物事をまねること」を意味する「模倣」を思い出し、「倣って」と漢字で書き、「素行のオサまらない」から「自分の行動や心がけを正しくするように努力すること」を意味する「修身」を思い出し、「修まらない」が書けるのは日本語では「音」と「訓」とが対応しているからだろう。
私のささやかな疑問はこれで解決したように思うのだが、他に理由があるのかもしれない。
鈴木氏は、漢字の学習について次のような文章も残している。
たしかに漢字の学習には時間がかかるかもしれない。しかしひとたび学習された漢字は、日本人の日常卑近な生活のレベルに必要な安定したことばと、抽象度の高い高級な概念とを連結する真に貴重な言語媒体としての機能があったことを、改めて認識する必要があるのではないだろうか。