「阿呆船」あるいは「愚者の船」

「阿呆船」あるいは「愚者の船」

啓(2022年12月21日)

 図書館からセバスティアン・ブラントの「阿呆船」上下(尾崎盛景訳、現代思潮新社)を借り出した。今の今まで全く知らなかった著者のこの本を借り出したのには次のような経緯がある。
 発端は私たち大学写真部OBの30数人が毎年秋に京都文化博物館で開催している写真展に、私が出展した3点の作品の一つに写っていたモニュメントである。このモニュメントは旅行で訪れたドイツ・ニュルンベルクの市街地の広場に設置されていた。私は設置されている大きな彫像作品を背伸びして眺めている子供の後ろ姿を写真に撮った。
 写真を撮りながら面白い作品だとは気になっていたが、縁に手を添えて背伸びをしてそれを眺めている赤いセーターを着た変わった髪型の男の子が可愛く、彼の方に関心が向いていたので、モニュメント自体の全体像についてはあまり関心を抱かなかった。
 忙しい中、展覧会を見に来てくれた若手女性法律家2人のうちの1人が、写真に写っているモニュメントが気になったようで「あれは誰の作品?」だったか「あれは何?」だったか、このような表現で私に質問した。
 その場では「知らない」と答えたが、時間もあることだし、ちょっと調べてみようと思った。玉石混交、不正確な情報や誤った情報が混在している、孫引き・曾孫引きが多い、など問題は多々あるものの「とっかかり」としては便利なインターネットで検索することから始めた。
 予想どおり観光客が撮った問題の物体の写真とその感想が書かれた画面が数多く現れた。その中に「この彫刻は15世紀のドイツ作家セバスティアン・ブラントによって書かれた風刺文学の作品をモチーフにしています・・・ルーブル美術館に収蔵されているヒエロニムス・ボスの『愚者の船』も同じ題材の作品です」との文章があった。
 この文章から、セバスティアン・ブラント、愚者の船、をキーワードとして再度検索すると、解説・太田泰人(神奈川県立近代美術館 普及課長)とのコメントの付いた次のような文章も見つかった。 「『愚者の船』は、ドイツの学者・諷刺作家セバスティアン・ブラントの長大な寓意詩。“愚者の楽園” ナラゴニアに船出する愚か者たちの物語で、同時代の愚行や乱れた生活態度、暴飲や好色などの悪徳、聖職者や法律家の腐敗などについて諷刺的な批判が盛り込まれている。(以下略)」
 ブラントのこの寓意詩についてウィキペディアは「1494年に発刊され、ラテン語、英語、フランス語、オランダ語など各言語に翻訳されて16世紀ヨーロッパにおけるベストセラーになった。・・・(中略)・・・巻頭第一章を飾るのは、万巻の書を集めながらそれを一切読むことなく本を崇めている愛書狂(ビブロマニア)であり、ここでは当時勃興した出版文化の恩恵に与りながら、有効活用もせず書物蒐集のみに勤しむ人々を皮肉っている」と説明している。
 多分最後まで読み通すことはないだろうと思いながらも、ひょっとしたら私もその端に連なるかもしれない愛書狂(ビブロマニア)についてどのように書いてあるのかが気になり、図書館の在庫を検索し借り出し予約をした。
 借り出した本は訳註まで入れると上下で548頁の堂々たるものだった。原文が韻文で書かれていることを尊重して全編を七五調で訳されているため、極めて読み易い。
 最初に「一 無用の書物のこと」とあり「わたしが船首におりますは、伊達や酔狂ではござらぬて、期するところがあればこそ。書物はわたしの生きがいで、宝の山と積んである。中味は全く分らぬが、蠅一匹にもふれさせず、あがめまつってありまする」で始まり、「それにわたしはばかせでござる。耳はかくれておりますな、粉屋のロバではござらぬぞ」で終わる。34行の文章である。
 その後は気になったところから適当に読み流したが、結構面白い。
「三一 日延べのこと」は34行詩で「一日二日と日を延ばし、明日の命も知らないで『あした、あした』と鳴く阿呆。『あした、あした』と歌いつつ、多くの阿呆が死んでった」と歌う。「三十八 言うことをきかぬ病人のこと」の94行詩には笑った。「病気を早くなおすには、なによりはじめが肝心だ」や「医者をたのんでおきながら、指図をまもらぬ阿呆者」は現代にも通じそうだ。
 最後に女性法律家の「この彫像の作者は?」については、ミュンスター生まれのユルゲン・ウェーバーとの記述を見つけたがその真偽は不明のままである。ニュルンベルク市当局にメールで照会することも考えたが、調査はこれで終わりとすることとした。
(注)訳者はタイトルについて「表題の“Narrenscniff”は一般にわが国では「愚者の船」と訳されていることが多い。もちろんそれで正しいのであるが、どうも批判の面が強すぎ、滑稽味に乏しいように思える。・・・それで「阿呆」という語を選んでみた・・・」と書いている。