児童文学

児童文学

KEI(2022年10月19日)

 かつてこの欄に、長年「子どもの本」の世界に関わってきた方が「児童文学という位置づけは大切だと思っている」とし、「子どもを内部に生かし続けている大人が、子どもの時の物語を言葉に変換してくれることで、子どもたちは物語を読むことで、物語の中で生き、冒険をし、子どもを生きる。そして、未来(大人になっていく先)を信じて一歩一歩と成長の階段を上っていく。人生に必要な言葉を獲得し、しあわせな結末を求めて、物語の世界に飛び込んで行けるーそういう児童文学を選んで、子どもたちの前に差し出したいと思うのです」と書かれた。
 児童文学について今まで考えたことがなかったのでちょっと勉強しようと思い、その方法を考えた。市立図書館の蔵書を「児童文学」というキーワードを使いチェックすると、雑誌「日本児童文学」や、いわゆる児童文学書を始めとして2171件がヒットした。素人が一つ一つチェックするのは大変だ、司書さんに相談しようかとも思ったが、国立国会図書館が何か情報を提供しているかも知れない、と考えた。
 そこで見つけたのが、YouTubeで発信されていた国立国会図書館主催の図書館員向け研修ビデオ「児童文学基礎講座:児童文学とは何かというとても難しい問題」である。講演者は日本女子大学教授で日本児童文学会理事でもある川端有子氏。
 レジュメの最初で、「児童文学という言葉がよび起こすイメージは、ひとによって様々な上に曖昧です。子どもが読む本でありながら、おとなによって書かれ、売り買いされ、評価されるという児童文学の特殊性と、その定義の難しさについて考えます」と書いている。
(以下、枠内はその講演から引用した部分である)

 自身が書いた「児童文学の教科書(玉川大学出版部)」でも定義をしていなかったということに気が付きました。あえて定義は避けて、そういう固定概念は間違っている、というアプローチをしていました。

 私は、約半世紀の間、法律に付き合ってきたあるいは法律に関する仕事をしてきた身であるためか、何かを考えるときには直ぐにその言葉の持つ意味、定義を考えてしまう、そこから頭の中で議論を始める。児童文学についても同じであり、その定義からスタートするものだと思っていたが、児童文学についてはどうもそうではないようだ。

 児童文学を定義する場合に「子どもとは何か」と「文学とは何か」がはっきりとしていることが前提となるが、それぞれについて「時代縛りの定義しかできない」「歴史的な概念である」との理由で明確にするのは難しい。イギリスで児童文学を学んだ時には、「定義から入るのではなく、origin and developmentという形で学んだというのも、起源と歴史にこそ意味があるということだったのだろう。

 このように述べた後、戦後に非常に大きな影響力を持った「子どもと文学」(石井桃子、いぬいとみこ、鈴木晋一、瀬田貞二、松居直、渡辺茂男、中央公論社)について…

 この「子どもと文学」を今読んでみると、児童文学についての普遍的な定義というものはありえないということを逆に照らし出しているような感じがします。ただし、この後これほどクリアに子どもと文学について考えて本を出した人はいなかったということは確かなので、そういう意味ではここを出発点として考えてみるということも必要かもしれません。

 続いて、児童文学の定義に重要な関係があると思われるその内容について、川端氏は「子どもと文学」に書かれている「子どもの文学は面白く、はっきりわかりやすくなくてはならない」「死や孤独を書くのは不必要である」との主張について典型的な児童文学を例に挙げて次のように否定している。

 ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」、ビアトリクス・ポターの「ピーター・ラビット」、ジェームズ・マシュー・バリの「ピーター・パン」には、大人が児童文学には不適切、不必要だと思われることが多く含まれているが、子どもたちは結構、好きなところを自分で好きなように読むのではないかと思います。

 また、キャサリン・ストー作、猪熊葉子訳「マリアンヌの夢」(岩波少年文庫)を例に挙げ…

 たとえ子どもたちにはわからないことが書かれていても……自分なりに好きなところだけ取って食べてしまう……それをこちらで規定してしまうことはあまり必要がないのではないか。

 子どもの文学では「死や孤独を書くのは不必要である」との主張に対しては次のように反論している。

「死」という問題は児童文学が始まって以来、子どもの本の中になかったことは多分ない、と言ってもいいぐらいなのに……

 最後に…

 最終的に、児童文学とは何かという難しい問題に、私は答えが与えられません。けれどもこれは、子どもが読むことになっている、又は子どもが読むことになった文学作品というふうに、緩く定義しておいて、それからはみ出るものがあったとしてもそれは別に良いことにしておくというような、周辺領域の曖昧さを許して置いておくぐらいの寛容さが良いのではないかと考えます。むしろそれよりも大事なのは、「子ども」とひとからげにしてしまわない個々の読者であり、「文学」とひとからげにしてしまわない個々の作品で あると思うからです。

 解ったようで解らない結論に思うが、児童文学というものは発言される人、発言される場によってその範囲、内容が異なるのだろう。確かに「児童」の「文学」と言ってもそれぞれの言葉自体が画一的に定義できないのだから。
 いずれにしても、今後児童文学について話をしたり、議論したりする場合は、自らが児童文学と考えている内容、自らの児童文学の定義を明確にした上で、行うことがより必要であり、それが建設的な意見交換に連なるのでは、と感じたことである。
 それにしても市立図書館の児童室や子ども室に並んでいる本はどのような判断基準で選ばれているのだろう。
 この疑問に対しては直接的な答ではないが、市立図書館の司書さんは「当館ではこれらの部屋と一般図書の部屋それぞれに『ヤングアダルト』という棚が設置されている」と教えてくれた。生活の知恵だろう。