「本を選ぶ」ということー児童文学について

「本を選ぶ」ということ-児童文学について

けふばあちゃん(2022年5月22日)

 以前、KEIさんが「本を選ぶ」というタイトルでこのページに書いていらっしゃいました。
 私は、「本を選ぶ」時ってどうしているだろうか?本屋さんでは、書評などで気になった本を探す。好きな作家のコーナーを見る。新書コーナーを物色。
図書館では、日本文学、英米文学、児童文学のヤングアダルトコーナー、詩歌、エッセー、園芸、料理、建築を回って、絵本の新刊、今日帰ってきた本のコーナーをめぐるうちに、なんとなく魅かれるものに出会ったら借りる。
一度気に入った作品があるとその作者の棚をしばらくあさる。とまあ、私個人の時は、こんな具合に本を選んでいる。
 一方、私は『じゃりんこ文庫』という家庭文庫を30年近く、その前はマンションで地域文庫を主宰していた。そのため、図書館の団体貸し出し制度を利用して、毎月100冊から250冊の本を選んでいた。
その場合、どのように本を選んでいたかというと、文庫に来ている子どもたちの顔をひとりひとり思い浮かべては、(車の好きなAちゃんには・・・)(Bちゃんは、今学校で琵琶湖のことを学んでいると言っていたなぁ)(Cちゃんは・・・)というように、文庫利用者が喜ぶであろうものを探したり、できればこんな本にであってほしいと思う本、長いこと読み継がれてきた本、読めばはまりそうな本など、子どもたちと本の内容と思い描いては選んでいた。
小さな文庫でさえ、「本を選ぶ」というのは、なかなか骨の折れる大変な仕事でもあり、楽しくもあった。
 図書館は、限られた予算の中で、利用者ひとりひとりを満足させ、しかも先の利用者を見越して、今買っておかなければならない本も選んでおかなければならない。地域の特色ある資料も、あるいはそれに役立つものも選ぶ必要がある。図書館の選書でその図書館の特徴が出さえする。
 KEIさんが「児童文学というものを私は認めません。子どもには大人にも向くものだけを与えるべきです」という言葉を引用されていましたが、私は、長年「子どもの本」の世界に関わってきて、やっぱり児童文学という位置づけは大切だと思っている。
 児童文学というのは、読み手はこれから大人になっていく成長しつつある子どもたちであるということ。そして書き手は大人であるということ。
児童文学を選ぶときに私は信頼している作家、翻訳家を目安に本を選ぶことが多い。信頼している翻訳家の一人、猪熊葉子さんの『児童文学最終講義』という本の中に、「自分の内部に子どもを生かし続けている大人、それを自覚している人と無意識な人がいることはもちろんですが、その自覚があり、それを作家として作品を書くのに必要な想像力のダイナモにする。そうすることによって結果として出てきたものが、いわゆる「児童文学」と呼ばれるものになる。」と。
子どもを内部に生かし続けている大人が、子どもの時の物語を言葉に変換してくれることで、子どもたちは物語を読むことで、物語の中で生き、冒険をし、子どもを生きる。そして、未来(大人になっていく先)を信じて一歩一歩と成長の階段を上っていく。
人生に必要な言葉を獲得し、しあわせな結末を求めて、物語の世界に飛び込んで行けるーそういう児童文学を選んで、子どもたちの前に差し出したいと思うのです。
 昨年の秋、松岡享子さんが文化功労者に選ばれた時、「子ども文学や読書の問題を正面切って取り上げられたのは、初めてのことではないかと存じます。そのことをうれしく思います。児童文学は、”おんなこども”のものとして、一段ひくくみられてきたきらいがありましたから。」と語っておられた。
ようやく児童文学も、文学の中の一分野と認められたということでしょうか。私もうれしく思いました。