酒を勧む

酒を勧む

KEI(2022年5月11日)

 かなり昔の話である。テレビの「開運!なんでも鑑定団」を見ていたら、ゲストとして招かれた将棋の田中寅彦九段がかつて将棋の指導をしていた故田中角栄元首相の色紙を鑑定対象品として持参していた。為書がなされていたが、この色紙には何十万円かの鑑定結果が出された。
 ここで書こうとしているのは、その鑑定結果に関してではない。元首相が色紙に書いた「花開多風雨」という言葉に関してである。これは于武陵の「勧酒」の一部分で、正しくは「花発多風雨」である。元首相は勘違いされたのだろうか、あるいは意識的にされたのだろうか「発」を「開」と書いていた。
 私が唐の詩人于武陵(うぶりょう)の五言絶句「勧酒」(さけをすすむ)を知ったのは井伏鱒二の名訳からである。井伏の訳詩を読んだ後に、原文に当たったのだが実に上手いと思った。
 井伏による訳詩は「コノサカヅキヲ受ケテクレ ドウゾナミナミツガシテオクレ ハナニアラシノタトヘモアルゾ 『サヨナラ』ダケガ人生ダ」と言うものである。原詩は「勧君金屈巵 満酌不須辞 花発多風雨 人生足別離」、読み下しでは「君に勧む 金屈巵(きんくつし) 満酌 辞するを須(もち)いず 花発(ひら)いて風雨多し 人生別離足る」である。
 井伏による転結の2行の訳は見事と言うしかない。特に最後の「人生別離足る」を「『サヨナラ』ダケガ人生ダ」としたのを知った時には、人生とはそういうものか、と思った記憶がある。また、「ハナニアラシノタトヘモアルゾ」からは「月に叢雲(むらくも)、花に風」を思い出した。
 よく分からなかったのは「金屈卮」であるが、これは、4升は入ると言う曲がった把手の付いた黄金の大杯のことらしい。唐時代の中国では現在の日本の4升と同じ量かどうかは知らないが、なみなみ注がれた4升入りの大杯は持ち上げるのも大変だ。これは白髪三千丈の世界のことなのだろう。とは言え、「人生別離足る」の気持ちを表すのには適切な言葉のように思われる。
 これを機に「日本の詩歌28巻訳詩集」(中央公論社)に収録されている井伏の名訳を読み返した。孟浩然の有名な春暁は「ハルノネザメノウツツデ聞ケバ トリノナクネデ目ガサメマシタ ヨルノアラシニ雨マジリ 散ッタ木ノ花イカホドバカリ」である。