人生七十古来稀なり

人生七十古来稀なり

KEI(2022年2月9日)

 一から十までの数の数え方には、和語系統のひとつ、ふたつ、みっつ・・・ななつ、やっつ、ここのつ、とお、というのと、漢語系統のいち、に、さん・・・しち、はち、く(もしくはきゅう)、じゅう、との二通りがあることは我われはよく知っている。
 しかるに、漢語系統のなかへ和語系統の一部が混入してきて、四と七はしばしば、よん、ななと読まれる。ここで四をよんと言うのは、しは死に通じて縁起が悪いからだ、と聞いたことがあるが、それよりも、二、四、七、十を通じて聞き違いを防ぐのが主眼であろう。
 最近、杜甫の曲江にある「人生七十古来稀なり」を「じんせいななじゅうこらいまれなり」と読むのか「じんせいしちじゅうこらいまれなり」と読むのが正しいのか、が気になっている。私は、「しちじゅう」と読むのが正しいと思っていたのだが、最近「ななじゅう」と読んでいるのに何回か出くわしたのだ。これが影響したのかどうか、つい最近、私自身が「ななじゅう」と言ってしまった。
 どちらでも意味は通じるとは言え、かなり気になる。一応、手元にあるそれらしき書物をざっと見たが、「ななじゅう」と読んでいるのは見つからなかった。全て「しちじゅう」であった。
 それにもかかわらず、私が「ななじゅう」と言ったのは、どうしてなのか、その理由は何なのか、もやもやした気持ちで過ごしていたときに、処分する本として積んでおいた高島俊男さんの「お言葉ですが・・・」(文藝春秋)が目に付いた。同氏は中国文学者・エッセイストで、つい先日(2021年4月)にお亡くなりになった。
 ひょっとしたら、という程度の軽い気持ちで頁を繰った。そこには「人生七十古来稀なり」とのタイトルで、私が気になっていたことを解決する文章が書かれていた。言うまでもなく「じんせいしちじゅうこらいまれなり」が正しいのだが、ここでは私が最近出くわしている「ななじゅう」についての理由のヒントらしきものが書かれていた。
 高島さんの文章は、次のような読者からの歌で始まる。(いずれも七という数字にななとルビがふられている)
 海老名市の菊池四郎さんが送ってくださった歌二首。
 アナウンサー七(なな)とよまねばくびになり
 七(なな)年七(なな)月七(なな)日に お七(なな)夜迎へて何とせう やはりお七(なな)と娘には 名前つけねばならぬかや 七(なな)福神前八百屋のおやぢ七(なな)兵衛
 ごらんの通りいずれも近ごろの、「しち」と言うべきところを「なな」という風潮を皮肉ったものである。(同書174頁)
 私の疑問は「最近の風潮が原因だったらしい」ということで解決したが、私も四十七士、七五調、七味唐辛子、七堂伽藍は正しく「しち」と読んでいる(と書いたが正直なところは「しち」ではなく「ひち」と発音している)が、同じく「しち」と発音しなければならない七百石、男女七歳にして席をおなじうせず、は「なな」と言っている。
 私が七を「しち」ではなく「ひち」と発音することについて、高島さんは「七五三」、「七人の侍」を「ひちごさん」、「ひちにんのさむらい」のごとく言うが、これは、ふとんを敷くのを「ふとんをひく」と言ったりする関西人の発音癖であって、標準語のしちと価値は全く同じだと、関西人である私の心を安らかにして下さった。