すごい美味しい
テレビ画面から「すごい美味しい」という声が聞こえて来たり、画面の人物が「すごく美味しい」と正しく発音しているのに、画面の文字では「すごい美味しい」となっていたりするのを見ると、私は非常に違和感を覚える。
手元には「名鏡国語辞典」編者の北原保雄氏の編になる「問題な日本語」(大修館書店、「な」だけが色を変え、少し斜めになっている)がある。この本はいろいろな問題表現を4~5頁で、「どうしてそういう表現が生まれてくるのか、誤用であったとしても、その誤用が生まれてくるいわば『誤用の論理』は何なのかを究明」している。
前掲の用法「すごい美味しい」について、同書は「形容詞を連用修飾に用いる場合は、連用形(副詞形)の『〇〇く』の形で、『おそろしく光る』『えらく疲れた』『すごくおいしい』のような言い方をするのが普通です」と説明しつつ、夏目漱石(「恐ろしい沢山書いたね」)、樋口一葉(「恐ろしい長い物を捲(まく)り上げる」)、泉鏡花(「恐ろしい利く唐辛子だ」)、野坂昭如(「ものすごいまずい」)、曽野綾子(「すごい立派な干菓子」)を例に挙げ、「戦後の作品には見られますが、比較的新しい用法のようで、不自然に感じる人も少なくないのでしょう」と説明する。
そして「『おそろしい』、『えらい』、『すごい』という形の副詞があると考えてもよいのではないでしょうか」と誤用に理解を示す。
このような私が不適切ではないかと思っている用法、例えば「こちら○○になります」「猫に餌をあげる」「とんでもありません」などについて、その依って来る所を説明しつつ「語構成や昔の言い方がどうだったかといった固定的な見方で正しいかどうかを判断するのは適当ではありません。文法的な解析や過去の用法の吟味とあわせて、現在の生きた用法をしっかり見据えることが必要です」としている。
そういう考えかたもあろうとは思うが、私は言葉の乱れは文化の乱れを齎(もたら)すのではないか、なんて大袈裟に考えてしまう。
それまで正しいとされてきた言葉や表現では言い表せない物事、現象や状況が現れたときに新しい表現が生まれるのは当然である。しかし、知識の不足から生まれる誤用の結果としての新しい表現は「いかがなものか」と思ってしまうのだ。
昔、フランス語を勉強していた時に「明晰ならざるものフランス語にあらず」(Ce qui n’est pas clair n’est pas francais.)という言葉を知った。この言葉が表しているように、フランス語は明晰で、論理的で、さらには美しい言葉である。
外国語と日本語を比べることは意味がないと言われそうだが、明晰性や論理性は別にして、美しい言葉が誤用の結果美しくない言葉に変容して行くのをみることは余りにも残念である。
手元には「名鏡国語辞典」編者の北原保雄氏の編になる「問題な日本語」(大修館書店、「な」だけが色を変え、少し斜めになっている)がある。この本はいろいろな問題表現を4~5頁で、「どうしてそういう表現が生まれてくるのか、誤用であったとしても、その誤用が生まれてくるいわば『誤用の論理』は何なのかを究明」している。
前掲の用法「すごい美味しい」について、同書は「形容詞を連用修飾に用いる場合は、連用形(副詞形)の『〇〇く』の形で、『おそろしく光る』『えらく疲れた』『すごくおいしい』のような言い方をするのが普通です」と説明しつつ、夏目漱石(「恐ろしい沢山書いたね」)、樋口一葉(「恐ろしい長い物を捲(まく)り上げる」)、泉鏡花(「恐ろしい利く唐辛子だ」)、野坂昭如(「ものすごいまずい」)、曽野綾子(「すごい立派な干菓子」)を例に挙げ、「戦後の作品には見られますが、比較的新しい用法のようで、不自然に感じる人も少なくないのでしょう」と説明する。
そして「『おそろしい』、『えらい』、『すごい』という形の副詞があると考えてもよいのではないでしょうか」と誤用に理解を示す。
このような私が不適切ではないかと思っている用法、例えば「こちら○○になります」「猫に餌をあげる」「とんでもありません」などについて、その依って来る所を説明しつつ「語構成や昔の言い方がどうだったかといった固定的な見方で正しいかどうかを判断するのは適当ではありません。文法的な解析や過去の用法の吟味とあわせて、現在の生きた用法をしっかり見据えることが必要です」としている。
そういう考えかたもあろうとは思うが、私は言葉の乱れは文化の乱れを齎(もたら)すのではないか、なんて大袈裟に考えてしまう。
それまで正しいとされてきた言葉や表現では言い表せない物事、現象や状況が現れたときに新しい表現が生まれるのは当然である。しかし、知識の不足から生まれる誤用の結果としての新しい表現は「いかがなものか」と思ってしまうのだ。
昔、フランス語を勉強していた時に「明晰ならざるものフランス語にあらず」(Ce qui n’est pas clair n’est pas francais.)という言葉を知った。この言葉が表しているように、フランス語は明晰で、論理的で、さらには美しい言葉である。
外国語と日本語を比べることは意味がないと言われそうだが、明晰性や論理性は別にして、美しい言葉が誤用の結果美しくない言葉に変容して行くのをみることは余りにも残念である。