闇の絵巻

「闇の絵巻」

KEI(2021年6月2日)

 畏友がブログで「見てから読むか」「読んでから見るか」と問題を提起していた。映画とその原作についてである。
 この文章を書きながら「2010年の春、京都国立博物館の『没後400年長谷川等伯展』で『楓図壁貼』や『松林図屏風』を見てから『闇の絵巻』を読んだのだろうか」、それとも「小説を読んでから彼の絵を見たのだろうか」と記憶を確かめた。
 長谷川等伯について伊藤若冲ほど深くは関心を持たず、澤田ふじ子さんの「闇の絵巻」(上下、光文社時代小説文庫)という小説をそれまで知らなかったことを考えると、どうも「見てから時間を置くことなく読んだ」ようである。
 長谷川等伯の名は日本史の教科書で知っていたし、テレビ画面では彼の絵を何度も眺めたが、彼の一生を描いた澤田ふじ子さんの小説「闇の絵巻」は、当時の絵師の世界の諸々を教えてくれ、とても興味深いものだった。
 能登の七尾に生まれ、そこで育った長谷川等伯(信春)は、絵師としての大望を抱き、京に上り、当時、画業隆盛を誇っていた狩野一門に対し競争心を持ち、才覚と人脈で秀吉に取り立てられる絵師に成り上がる。そして画壇主流派の狩野派を脅かすほどの人気を得る。
 しかし、画才に恵まれ跡継ぎと見込んでいた長男の久蔵が狩野一門に殺されるという不幸に見舞われる。
 澤田さんは、久蔵の葬儀について簡単に触れた後、「(等伯は)直後から、狩野一門の再起を牽制するように、目ざましい活躍をつづけた。久蔵没後の翌年、等伯は<慟哭と鎮魂の水墨画>といわれる『松林図屏風』を描きあげている」と非業に倒れた愛息への等伯の思いを綴っている。
 そして「もっとも狩野永徳の障屏絵(へだてえ)は、多くが城館をかざっていたため、戦火であらかた失われた。それにくらべ長谷川等伯の絵は、いまもおおく残っており、美術史は永徳より等伯の作品に重きをおいている」と述べる。
 ライバルの狩野永徳の活躍についても「安土築城」と題した項で、どのようにして狩野永徳が狩野一門を率い安土城を飾る数千枚にもなるだろうという障屏絵に対応したか、どのような周到な準備作業がなされたか等が詳細に興味深く書かれている。
 余談だが、狩野永徳の準備作業を澤田さんの文章で読みながら、私はなんの脈絡もなくピーテル・パウル・ルーベンス工房を思い出していた。規模も異なり目的も違うが、ルーベンスも殺到する注文に対し工房を組織して対応した。ルーベンスがチョークで描いたデッサンに数人の若い画家が色をつけ、最終的な仕上げをルーベンスが行っていたと言われている。
 最後に、長谷川等伯の「楓図壁貼」と「松林図屏風」はいずれも国宝に指定されている。前者は絢爛たる金壁画であり、後者は豊かな墨調を持つ余白美の極致といわれる水墨画である。年齢のしからしめるところか私は後者が好きである。