「大河の一滴」

「大河の一滴」

KEI(2021年2月10日)

 私は五木寛之さんの小説は読んだ記憶がない。が、「百寺巡礼」に書かれた幾つかのお寺についての文章は読んだことはある。また、NHKのラジオ深夜便での元同局アナウンサーの須磨佳津江さんとの人生と歌とをテーマにした対談番組は好きでよく聞いていた。
 新型コロナウイルス問題に関連して多くの時間を自宅で過ごしておられる方々に、いま五木寛之さんの「大河の一滴」(幻冬舎)が読まれている、とのNHKテレビの報道を耳にした。他にもどこかの民放テレビがこの本を取り上げて特集番組を作ったことも知った。
 現在問題になっている新型コロナウイルスに対しては、今後は「“闘う”のではなく“共存する”」「“ウイズコロナ”の生活や社会を目指す」などと言われている。その場合の生活の指針、心のよりどころ、あるいは考え方のヒントがこの本の中にあると考えられ、読まれているのだろうか。
 阪神淡路大震災の後である平成10年4月に発行されたこの「大河の一滴」には、私自身も五木さんが言われるように「自らの頭で真面目に考えてみよう」と思った幾つかの発言があった。
「結局は、時間が解決してくれるのを待つしかないのだ」「人生というものはおおむね苦しみの連続である」「いまこそ私たちは、極限のマイナス地点から出発すべきではないか」「なにも期待しないという覚悟で生きる」「いま、人間は少し身を屈する必要があるのではないだろうか」「ぼくらの前にはもう一ぺん新しい戦後の焼け跡・闇市というものがひろがっているのではないか」等々である。
「大河の一滴としての自分を見つめて」との小見出しの項の最後を五木さんは「私たちの生は、大河の流れの一滴にすぎない。…いま私たちはゆったりと海へくだり、また空へ還ってゆく人生を思い描くべきときにさしかかっているのではあるまいか。『人はみな大河の一滴』ふたたびそこからはじめるしかないと思うのだ」で締め括る。
 また、“面授”という言葉が出て来る。人間と人間が向き合い、お互いに息づかいの聞こえるような距離でもって何かを学び、何かを伝え、そして何かが伝えられることをいうそうだが、五木さんは「コンピューターが全盛になっていけばいくだけ、もっと肉声の聞こえるような、人間との接触…が大事にされなければ、人間は大事なものをなくしてしまうのではなかろうか」という。テレワーク、WEB会議を考える時には同時に“面授”も考える必要がありそうだ。
 五木さんより少し若いといっても既に老齢期にある私であるためか、五木さんの考え方の基礎、根本にあるものをある程度は理解することはできたと思っている。しかし、精神の高揚している時期の若者は五木さんの思いについてどのように考えるだろうか。もし私が30代40代の頃に、この本が発行され、それをきちんと読んでいたと仮定したら、どのような感想を抱いただろうかと思う。
(追記)
 この原稿を事務局にお届けした後に、金沢大学教授の仲正昌樹さんが2020年12月27日付の産経新聞朝刊で「リモートで失われる社会関係資本」としてイングランド銀行のチーフ・エコノミストのアンディ・ハルデーン氏が「リモート・ワークの割合が増え、他社とのリアルは接点が減少していることの負の影響を指摘」し、「ZOOMなどでのリモート会議は、公式的な情報を効率的に獲得するには有用だが、非公式的な会話を通じて得られる『暗黙知』や『個人的情報』が失われがちだ」と言っていることを紹介されていた。
 具体的には、「会議の席で会議が正式に始まる前後での個人的な会話、エレベーターからオフィスに向かうまでの数分間の立ち話、パブなどでの同窓生との情報交換等」のことである。
 長年の間、企業で働いていた私にはこのハルデーン氏の意見はとてもよく理解できる。五木さんの言われる「肉声の聞こえるような、人間との接触」と一脈相通ずるのではないだろうか。