言葉と文章

言葉と文章

KEI(2020年11月11日)

 私は、若い頃から言葉や文章に強い関心を抱いていたようだ。書庫には昭和35年発行の福田恒存著「私の國語教室」を始めとして「文章読本」と題された川端康成、谷崎潤一郎、三島由紀夫、丸谷才一、井上ひさし等の書物が並んでいる。丸谷才一の「日本語のために」「桜もさよならも日本語」や渡辺昇一の「日本語のこころ」もある。全てに目を通したはずだが、覚えていることは少ない。というよりほとんど記憶していない。
 ほとんど記憶していない、と書いたが、どの本から得た知識かは覚えていないが、言葉と文章に関して幾つか頭に残っていることがある。
 その第一は、大和言葉と漢語との比較であり、そこには「心が内向的あるいは情緒的になっているときは大和言葉になり、心が外向的になっているときあるいは知的な活動の場面では漢語を多く使う」とし、歌謡曲と寮歌・軍歌が比較され、また論文が例に挙げられていた。これを読んで、その通りだと同感したことである。
 その第二は、「文章上達の要諦は名文を読むに尽きる」である。そこでは著者が名文と考えている幾つかの例を理由を付けて挙げられていたが、著者が悪文と批評した著名作家の文章との差は歴然としていた。
 ここでは私が何度読んでも理解できない、私の理解力不足が原因なのだろうかと思った作家の文章や、生理的に読みたくないと感じた作家の文章が、悪文の例として引用されており、ちょっと安心したことであった。
 第三は、「暗いテーマ、陰鬱な題材を扱うに当たっては、常に倍する精神の緊張、心ばえのさわやかさがなくてはならない」である。この文章に出会ったときは「ふぅーん」と思った程度だったが、何か気になって覚えている。最近の「暗いテーマ、陰鬱な題材」を扱った文章を読んで、やっと著者の言わんとすることが理解できたような気がした。「精神の緊張」「心ばえのさわやかさ」を欠いている文章があまりにも多い。
 この文章を書くに際し手元に積み上げたこれらの本を眺めても思い出すことの少なさに、自分自身で呆れているが、「桜もさよならも日本語」をペラペラとめくっていて最近猖獗をきわめている、私が大嫌いな語法「させていただく」について書かれた文章に気が付いた。
 この語法について丸谷才一も「最近の日本における『…させていただく』の大洪水は閉口ものだ」と書き「現代日本人はあの慇懃無礼に恩を買ふ…欺瞞的低姿勢の語法をもうすこし慎むほうがいいと思ふ」としている。
 そして、司馬遼太郎さんが「街道をゆく」の中の一編「近江の人」の中で「本来は…浄土真宗の教義から出たもので、何事も阿弥陀様のおかげであるからこそ、そのおかげに感謝して、『息災にすごさせていただいております』などと使ふ」とお書きになっていることも示し、9頁に亘って自らの意見を述べている。(148頁~156頁)
 最後に、言葉や文章に関する多くの書物を読んだと称する人間が「この程度の文章しか書けないのか」「何を勉強したのだ」と言われそうだが、批判は甘受する。