ルビ(振り仮名)
どうして最近の小学生あるいは中学生の読み物にルビが振られていないのか、私は、疑問に思っている。私が子供の頃に読んだ多くの書物にはルビが振られ、これにより学校では習っていない漢字の読み方を覚えたように記憶している。
テレビで発言しているそれなりに社会的地位のある人物が「奇しくも」を「キシクモ」、「この期に及んで」を「コノキニオヨンデ」、「名を捨てて実を取る」を「ナオステテミヲトル」をなどと言っているのを聞くと、ルビがあったらなあ、ルビが振られた書物を読んでいたならなあ、と思ってしまう。会社で「伏魔殿」を「フシマデン」と発音していた人物もいたと聞いた。
これらの人々を始めとして大人に対しては誰も注意をしないだろうから、一生間違った読み方を続けることになり、ちょっと気の毒である。ご利益(ゴリヤク)を「ゴリエキ」と誤って覚えている人は、神仏からのご利益は期待できないだろう、とちょっと皮肉も言いたくなる。
私が、「阿蘭陀」を「オランダ」、「桑港」を「サンフランシスコ」と正しく読めるのは、子供時代に読んだ冒険物語にルビが振ってあったからだろう。
このように書きながらも、私にも間違って覚えている言葉があるに違いない。過ちを正してくれる人は果たしているのかどうか、心配である。
ルビを振ることにより、小さな子供たちが、意味は分からなくても、ちょっと背伸びをした書物を手に取る機会も増えよう。そして難しい漢字を覚えることにも繋がるだろう。いいことだらけのように思うが、なぜルビが廃止されたのだろう。
全くおぼろげな記憶ではあるが、子供たちが小さなルビを読むと目が悪くなるためルビを廃止した、というような論を聞いたことがある。本当にそうなのだろうか。かつてはそうであったとしても、明るすぎるほどの家庭照明や最近の印刷技術の進化、高度化によってこの問題は、既に解決されているのではないだろうか。
目の老化により、大きな文字も読みにくくなっている現在の私であるが、次世代を担う若者が正しい日本語を使えるようにもルビの必要性を再検討されることを希望している。
このようなことを思っていたのだが、ちょっとしたことを調べるために図書館から借り出した「二十四の瞳」(講談社青い鳥文庫)には全ての漢字にルビが振られているのに気がついた。最近はこのような本が多いのだろうか。それならそれで結構なことではあるが。
テレビで発言しているそれなりに社会的地位のある人物が「奇しくも」を「キシクモ」、「この期に及んで」を「コノキニオヨンデ」、「名を捨てて実を取る」を「ナオステテミヲトル」をなどと言っているのを聞くと、ルビがあったらなあ、ルビが振られた書物を読んでいたならなあ、と思ってしまう。会社で「伏魔殿」を「フシマデン」と発音していた人物もいたと聞いた。
これらの人々を始めとして大人に対しては誰も注意をしないだろうから、一生間違った読み方を続けることになり、ちょっと気の毒である。ご利益(ゴリヤク)を「ゴリエキ」と誤って覚えている人は、神仏からのご利益は期待できないだろう、とちょっと皮肉も言いたくなる。
私が、「阿蘭陀」を「オランダ」、「桑港」を「サンフランシスコ」と正しく読めるのは、子供時代に読んだ冒険物語にルビが振ってあったからだろう。
このように書きながらも、私にも間違って覚えている言葉があるに違いない。過ちを正してくれる人は果たしているのかどうか、心配である。
ルビを振ることにより、小さな子供たちが、意味は分からなくても、ちょっと背伸びをした書物を手に取る機会も増えよう。そして難しい漢字を覚えることにも繋がるだろう。いいことだらけのように思うが、なぜルビが廃止されたのだろう。
全くおぼろげな記憶ではあるが、子供たちが小さなルビを読むと目が悪くなるためルビを廃止した、というような論を聞いたことがある。本当にそうなのだろうか。かつてはそうであったとしても、明るすぎるほどの家庭照明や最近の印刷技術の進化、高度化によってこの問題は、既に解決されているのではないだろうか。
目の老化により、大きな文字も読みにくくなっている現在の私であるが、次世代を担う若者が正しい日本語を使えるようにもルビの必要性を再検討されることを希望している。
このようなことを思っていたのだが、ちょっとしたことを調べるために図書館から借り出した「二十四の瞳」(講談社青い鳥文庫)には全ての漢字にルビが振られているのに気がついた。最近はこのような本が多いのだろうか。それならそれで結構なことではあるが。