なくなった「私の図書館」

なくなった「私の図書館」

KEI(2018年3月7日)

 誤解を恐れずに図書館と書いた。棚に数多くの新品ではない書籍が並んでいるところは図書館に似ているが、本当は図書館ではない。古書籍を扱う書肆である。かつては我が家から歩いて10分以内のところに3軒のこのような店があった。
 中でも私のお気に入りは、最寄り駅の向こう側にあった「下町の古本屋」という表現がぴったりの、間口2間奥行4間ほどの小さな古本屋だった。店に入ると、古本特有の匂いが微かに感じられる店だった。
 店番をしているのは、私と同年輩の無精ひげを生やした男性である。いつも奥の小さなカウンターの後ろに座って、クラシック音楽を聴きながら、なにやら難しそうな本を読んでいた。客が入ってくると、チラッと目をやるが、挨拶一つしない。最初は無愛想に感じたが、慣れてしまうとかえって面倒臭く無くていい。
 彼と口を利いた記憶はただ一回だけである。カウンター近くの書棚に高橋和巳の全集が置かれていたが、「悲の器」の作者が見たら悲しむような値段がついていた。何気なく「高橋和巳全集、こんなに安いの。我々が若いときはとても人気があった作家なのに」と聞くともなく口に出した。彼は「今、高橋和巳は人気がないのでね」と悲しそうな口振りで答えた。
 店は文字どおり本で溢れかえっている。書籍が溢れんばかりの状態で収められた天井近くまである書棚の前には、書棚に入りきらない本が、通路を狭めて、足元から1メートル近くの高さまで、横に積まれており、それが二重、三重になっている。
 積み上げられた本の書名を読むには、頭を横に倒さなければならない。奥に積まれている書物は、前の本を動かさない限り、見ることはできない。
 サラリーマン時代の私がここへ顔を出したのは、気分が鬱屈しているときや逆に楽しく行動的なとき、それに休日の小雨の午後が多かったように記憶している。
 ここでは、格安の値段で幾つかの全集物や発行時には忙しさで買えなかった新刊書を買ったりした。
 新刊書店には当然のことながら置かれておらず、また当市の図書館も持っていなかった書物、私が長年探し求めていた50数年前に発行された単行本を2冊見つけたときはとても嬉しかったのを覚えている。その内の1冊は丸谷才一だったか開高健だったかが激賞していたエッセイ集であり、後の1冊は大学時代に西洋外交史を教わった教授から借り、一読の上返却したが心に残っている幾つかの文章が収められたものだった。
 私にとって図書館のようであったと敬意を込めて言う「この古本屋」も店主の病没により廃業してしまった。残りの二つの店の内、比較的若い人好みの本が多かった店はコンビニエンスストアに姿を変え、もう一つの店は、店主の意向が反映していたのだろう、しっかりとした書物にきっちりとした値付けをされていたが、ずっとシャッターが降りたままである。