国立国会図書館からのお礼状
当市の図書館からのメールマガジンを見ていると≪国立国会図書館からお礼状をいただきました≫という記事が目に付いた。
「へえー、お礼状」「なんのお礼状?」「何をしたの?」と野次馬根性丸出しで記事を読んだ。
記事によると「(当市の)図書館では市民からの疑問についての調査結果から、全国の人にも広く役立ちそうな事例を選んで、国立国会図書館の『レファレンス協同データベース』に登録・公開しているが、これまでに多数の事例を登録したとして、国立国会図書館長よりお礼状をいただいた」そうだ。掲載されていた礼状のコピーによると我が市立図書館の累積登録データ点数は、1102点とあった。
「レファレンス協同データベース」という言葉はメールマガジンのこの記事で初めて知った。調べてみると、これは国立国会図書館が全国の図書館と協同で構築している調べ物のためのデータベースで、レファレンス事例、調べ方マニュアル等のデータを蓄積し、これらをインターネットを通じて提供する事業のようだ。2009年に本格的に事業化されたという。
この事業の必要性や有用性については、肯定論、否定論その他いろいろな意見がありそうだが、データベース自体は、使いこなせば結構役に立つだろうとは感じた。
興味本位でちょっと覗いた限りでの感想だが、「活用法」「活用術」「レファレンス事例」「おすすめデータ一覧」などの項目は読んでみると、結構楽しく面白い。
ここまで解った段階で、我が市立図書館はどのようなデータを登録したのだろう、これも野次馬として知りたくなった。
「川端康成は高浜橋を渡ったか」「坂田三吉が当市に住んでいたというのは本当か」という当市の市民なら興味を持つような、あるいは関心を抱くような質問に対する回答が登録されていた。
前者について、川端康成は一時期、現在の大阪市東淀川区豊里1丁目から3丁目にあたる三番村に住んでいたことがあり、そこから東海道線吹田駅に向かい中学校のある茨木まで汽車で通っていたと資料にある。三番村から吹田駅に出るには神埼川を渡らなければならない。どのような方法によって川を渡ったのか、“吹田の渡し”で渡し舟を使ったのか、少し下流の高浜橋を使ったのか、が質問者の疑問だったようだ。回答は、「資料によると渡し場があったのは明治8年までで、川端康成が中学校に通っていた大正3年から4年にはすでに高浜橋が存在していたので、川端康成は高浜橋を渡って吹田駅まで歩いたことになる」というものだった。幾つかの関係資料が明示されていた。
後者については、2009年に重要文化財に指定された旧西尾家住宅で阪田三吉使用の将棋盤を見てきた人からの質問だった。答は簡単で、その旨の記述がある書物2冊と坂田三吉がもっとも長く住んだという吹田市の借家の写真が紹介されていた。
国立国会図書館からのお礼状の記事からいろいろと勉強することになった。
「へえー、お礼状」「なんのお礼状?」「何をしたの?」と野次馬根性丸出しで記事を読んだ。
記事によると「(当市の)図書館では市民からの疑問についての調査結果から、全国の人にも広く役立ちそうな事例を選んで、国立国会図書館の『レファレンス協同データベース』に登録・公開しているが、これまでに多数の事例を登録したとして、国立国会図書館長よりお礼状をいただいた」そうだ。掲載されていた礼状のコピーによると我が市立図書館の累積登録データ点数は、1102点とあった。
「レファレンス協同データベース」という言葉はメールマガジンのこの記事で初めて知った。調べてみると、これは国立国会図書館が全国の図書館と協同で構築している調べ物のためのデータベースで、レファレンス事例、調べ方マニュアル等のデータを蓄積し、これらをインターネットを通じて提供する事業のようだ。2009年に本格的に事業化されたという。
この事業の必要性や有用性については、肯定論、否定論その他いろいろな意見がありそうだが、データベース自体は、使いこなせば結構役に立つだろうとは感じた。
興味本位でちょっと覗いた限りでの感想だが、「活用法」「活用術」「レファレンス事例」「おすすめデータ一覧」などの項目は読んでみると、結構楽しく面白い。
ここまで解った段階で、我が市立図書館はどのようなデータを登録したのだろう、これも野次馬として知りたくなった。
「川端康成は高浜橋を渡ったか」「坂田三吉が当市に住んでいたというのは本当か」という当市の市民なら興味を持つような、あるいは関心を抱くような質問に対する回答が登録されていた。
前者について、川端康成は一時期、現在の大阪市東淀川区豊里1丁目から3丁目にあたる三番村に住んでいたことがあり、そこから東海道線吹田駅に向かい中学校のある茨木まで汽車で通っていたと資料にある。三番村から吹田駅に出るには神埼川を渡らなければならない。どのような方法によって川を渡ったのか、“吹田の渡し”で渡し舟を使ったのか、少し下流の高浜橋を使ったのか、が質問者の疑問だったようだ。回答は、「資料によると渡し場があったのは明治8年までで、川端康成が中学校に通っていた大正3年から4年にはすでに高浜橋が存在していたので、川端康成は高浜橋を渡って吹田駅まで歩いたことになる」というものだった。幾つかの関係資料が明示されていた。
後者については、2009年に重要文化財に指定された旧西尾家住宅で阪田三吉使用の将棋盤を見てきた人からの質問だった。答は簡単で、その旨の記述がある書物2冊と坂田三吉がもっとも長く住んだという吹田市の借家の写真が紹介されていた。
国立国会図書館からのお礼状の記事からいろいろと勉強することになった。