米百俵の心

米百俵の心

麻(2024年9月18日)

 8月2日のことです。テレビ中継で日本三大花火大会の一つである長岡まつり大花火大会を堪能しました。技術、工夫が凝らされた花火は実に美しく、この花火大会が長岡空襲や新潟県中越地震・中越沖地震などの災害についての慰霊・復興祈念のために開催されていることと相俟って感動したことでした。

 紹介された花火の名称には「フェニックス」「ナイアガラ大瀑布」「スターマイン」など比較的馴染みのあるもののほか「米百俵の心」というのがありました。
 この名前を聞いたとき、私は「幕末の頃、長岡藩の窮状を知った近くの藩から米百俵が送られてきた。食べるものにも事欠く藩士たちにとっては、喉から手が出るような米であった。しかし、藩の重役である小林某はこの百俵の米は人材を育成するために使うべきだと主張し皆を説得し、書籍の購入や学校の設立に充てた。その結果、後年長岡藩からは偉人が輩出した」という話を思い出しました。いつ知ったのか誰から教わったのかは思い出せません。
 中継の場にはアナウンサーを始め地元の人も含め数人のコメンテーターがいらっしゃいましたが、周知の事実だと思われたのか誰もこの挿話には触れられませんでした。この名称の由来を説明すれば話が長くなると思われたのかも知れません。

「米百俵の心」をもう少し詳しく知りたいと図書館の蔵書を検索し、山本有三著「米百俵」(新潮文庫)と坂本保富著「米百俵の主人公小林虎三郎」(学文社)を借り出しました。
 前者は戯曲でした。編集後記には昭和 18 年東京劇場で上演されたとありました。舞台脚本という性質上とても読み易く、あっという間に読み終えました。

 後者は副題に「日本近代化と佐久間象山門人の軌跡」とありますように、幕末から明治初期における教育について述べた419頁からなる学術書でした。
 その第二章で長岡藩の教育と米百俵のことが書かれていました。ここでその内容を詳しく述べるのは控えたいと思いますが、そこには学校新築に要する費用は三千両であったこと、換金された米百俵の代金は二百七十両前後であったこと、長岡藩旧主家からも拠出金があったこと、等が書かれていました。
 これに加えて「しかしながら、『米百俵』が学校開設資金の総額からみて、如何に少額であったとしても、その日の空腹をも満たすことのできない戊辰戦後の困窮のなかで、それを救助米としては配分せず、長岡復興を担う人材育成のための学校開設資金に組み込むという虎三郎たち藩首脳陣の勇気ある決断は、長岡の人々をして敗戦の絶望から復興の希望へと意識の転換を促すに足る、実に衝撃的な出来事であったといえる。三根山藩から送られた『米百俵』は長岡復興の起爆剤となり、単なる経済的な効果を超えて、計り知れない精神的な価値をもたらしたということである」と書かれています。そのとおりに違いない、と思いつつ読み進めました。

 そして私は全く知らなかったのですが、小林虎三郎は病身だったのです。山本有三著「米百俵」では「不治の病におかされ、以来十数年、病床にあって読書と思索を続けていたが……」と書かれています。坂本保富著「米百俵の主人公小林虎三郎」では残された小林の著作物や書簡から「片目失明」「軽症の結核とリューマチ」とその病を推測しています。
 病についての推測を述べた後、坂本は「病魔と格闘しながら、生まれてきた証として何事かをなそうと最後まで苦悩した彼の人生は、常に永遠なる天と対峙して己の天命を問い、天に恥じなく己を全うせんとして生きた、実に壮絶な一期であった」と書き、論を閉じています。