「夜と霧」

「夜と霧」

麻(2024年11月27日)

 書庫でそこに置かれた未整理の種々雑多な本を処分する本と残す本とに区分する作業をしていたときです。一番上の棚の隅から V.E. フランクルの「夜と霧」(みすず書房、霜山徳爾訳)が出てきました。これは私が買った本ではなく、何十年も前に読書好きの友人から借りた本です。そのことはその場の情景と共にはっきりと覚えています。お酒の飲めない彼と、かつて大流行した、ゆったりとしたソファがあり照明が落とされた落ち着いた空間の喫茶店で雑談をしているときのことでした。どういう話からなのか、彼はこの本について触れ、読むことを勧めてくれ、何日か後に手渡してくれたものでした。
 この「夜と霧」については日本語訳が売られた時点で評判になった本、アウシュビッツ(オシフィエンチム)収容所を描いた本ということだけを知っており、借りたものの「重いなあ」と読むこともなくリビングの本棚に仮置きし、その後の整理の段階で今の場所に置いたようです。

 借りたこの本は長い間読むこともなかったのですが、私はアウシュビッツ収容所を訪れています。その際、妻は私に「写真を撮らないように」と注意しました。写真好きの私ですが、私もこの場では写真は一切取らないと決めていました。そして入り口の写真を一枚撮っただけで、後は一切カメラには手を触れませんでした。
 世界中からここを訪れる人びとの靴に踏まれた結果でしょうか訪れた収容所内の全ての建物の中のコンクリート造りの階段の中央部分がはっきりそれと分かるほど擦り減っていたこと、訪れている人びとは圧倒的に若い人が多かったこと、を覚えています。建物内で心を痛ませる数多くの、種類ごとに分別された、遺品の山を見たときには一瞬、目を逸らしました。

 書庫の整理中にこの本に目が止まったのはなぜなのかは分かりませんが(心理学者であるこの本の著者に聞いたら何かその理由を教えてくれるでしょうか)、取り敢えず書庫から机の上に移動し読み始めました。
 この本は私が予想していたような収容所の悲惨な状況を述べるだけでなく(というより述べるのではなくと書くのが正しいのかもしれません)、原題「強制収容所における一心理学者の体験」(Ein Psycholog erlebt das K.Z)が示しているように「冷静な心理学者の眼でみることになった限界状況における人間の姿」が記録されています。
 収容所ショックと著者が名付けた第一の段階、心の自己防衛に必要な比較的無感動な第二の段階における読むだけでも寒気がし目を背けたくなるような事実、限界状況における人間の姿、が心理学者の目で、淡々と、客観的に記述されています。これらは現実に起こっていた悲惨な状態、状況をより深く私たちに教えてくれるものだと思いながら、時間をかけて読みました。
 その後、著者はアウシュビッツ収容所からバイエルンのダッハウ支所へ送られます。そしてその収容所から解放された時の心理について「極度の緊張の日の翌朝、われわれの収容所に白旗が翻っていたというわれわれの報告のあの部分から始めたいと思う」と書いた上で「収容所生活の最後の頃の極度の心理的緊張、このいわば神経戦から心の平和へと戻る道は決して障害のない道ではなかった」「すなわち収容所におけるような極度の心理的圧迫の下にいた人間は解放の後に、しかも突然の圧迫除去の故に、ある心理的な危険に脅かされているのである」として例を挙げてその内容を心理学者の目を通して具体的に説明しています。

 読み終わった今、この本をどうしようかと考えています。この本を貸してくれた友人とはこの 10 年ほどは年賀状の交換だけになっています。お互いにそれぞれが元気に過ごしていることは分かっていますが、この本を返すという理由で会い、そこでこの本を話題にするというのはかなり心の負担になります。礼状を添えて返却する手もありますが、それは私の心に何か引っ掛かるものがあります。「貸し“下され”た」と考え、何もしないのが良いのかもしれません。