珊瑚集

珊瑚集

啓(2024年5月22日)

「緑の遊歩道」と名付けられた我が家の近くにあるウオーキング道を歩いていた時の妻とのたわいのない会話である。傍らに植えられたサンゴジュやクチナシを眺めながら「葉が随分と傷んでいるね、虫がついているのだろうか」「昔、庭に咲いていたクチナシの葉もよく虫に食われていたね」「サンゴジュは葉が厚く甘いので虫がよくつく」。
 妻とのこの会話に出てきた「サンゴ」と言う言葉が契機になったのかどうか、頭の中で突然に、誰だったかが永井荷風の「珊瑚集」についてどこかのラジオ番組で話をしていたのが蘇った。いい加減に聞いていたのでどのような話だったのか覚えていることは少ない。覚えているのは話の主人公が、 80 年以上前に1円 80 銭(だったと記憶している)で 1,000 部(と覚えている)発行されたこの本を神田の有名な古書肆(名前は忘れた)で 5,500 円で買ったこと、その内の幾つかの詩(どのような詩だったかは全く覚えていない)を紹介していたこと位である。本は戦前のものとは思えないほど保存状態がよく綺麗だったそうだ。
 私は、永井荷風についてはその名前と幾つかの作品のタイトルと彼に関しての幾つかのエピソードを断片的に知っているだけである。「珊瑚集」というのは確かフランスの近代抒情詩の訳詩集だとのおぼろげな記憶も残っている。これら以外には彼についての知識はない。彼の作品を読んだ記憶はない。
 差し当たり読むべき本もないので図書館の蔵書を検索し、荷風全集(岩波書店)の第 11 巻と第 28 巻を借出した。昭和 40 年代発行のこれらには昔の小学校の図書室の本がそうであったように表紙裏に図書カードを入れる小さな袋が張り付けられていた。本自体は、借り出した人も少ないのだろうか、赤茶けていたが綺麗な状態だった。
 珊瑚集は第 11 巻に置かれていた。第 28 巻には「珊瑚集校異」として「籾山書店版」と「元版『荷風全集』版」を上下におき、それぞれの差異が詳細に書かれていた。後者は私にとってはあまり意味がないように思われたので第 11 巻を読むこととした。
 訳詩の全ての漢字にはルビが振られ、その意味ではとても読み易く感じた。訳の巧拙については私には語る資格がない。
 書籍本体に張り付けられた月報で詩人の牧 羊子(開高 健夫人)が書いている「……荷風のそれ(文体)は全く独自の文語体であります。一見、文語体にみえながら、その訳語をもう一度注意してみなおすと、これはもう、今日私たちが平常語として使っている、何気ない平易な、のびのびとした、若い口語体のことばであります」というのが私が読み易く感じた本当の理由かもしれない。
  10 代後半に意味も分からず、背伸びして気取って読んだボードレールの「悪の華」以来何十年か振りに思いもかけずフランス詩人の訳詩集を読んだということになる。