解釈は難しい

解釈は難しい

啓(2024年1月17日)

 2年前に携帯電話をスマートフォンに代えたとき、それを知った大学写真部 OB 会の後輩の一人が彼と同時期に部活動をしていた7~8人と作っているラインのグループに参加するよう勧めてくれた。
 新しいおもちゃ(?)の操作になれるのにも役に立つだろうと思い、喜んで参加した。日常生活の諸々やゴルフの成績の報告があったり、最近作った料理の写真や庭の花の写真が掲載されたりと、結構面白い。
 昨年末だったか、大雪が降った時に埼玉県の郡部に住んでいる仲間から「昼の雪凍て柿つつく四十雀」と言う投稿が雪中の柿の樹の写真と共になされた。短歌や俳句の素養のない私は「なるほど」と思ったが、しばらくして日経歌壇に何度もその短歌が掲載されている仲間から「雪は冬、柿は秋、シジュウカラは夏の季語で季重なりでございます。云々」というメールが入った。これに対して作者は「三季重ね草間弥生ですねえ」と返した。(この返答の含意は私には不明である)
 今、私は「俳句の世界――発生から現代まで――」(小西甚一、講談社学術文庫)を私の知っている俳句を中心にその解釈やその「歴史的な流れの中での位置づけ」を眺めている。
 そこには「句の解釈は作者の解釈が必ずしも正しいとは限らない」ということに関して面白い話が書かれていた。
「降る雪や明治は遠くなりにけり」は中村草田男の代表句の一つであり、私の好きな句でもある。この句に関して草田男は自身の説明として、次のように書いている、という。

 歳末のある日、赤坂あたりのかれの母校―小学校―を二十年ぶりに訪れたときの句である。突然、金ボタンの黒外套を着た子どもが数人、校庭に走り出た。草田男は、二十年の歳月を,ふいに意識させられた。かれの念頭には、黒絣の着物に高下駄、黄色い草履袋をさげた小学生の姿だけが在ったからである。そのとき降りだした雪にかれは、遠い回想の情を大きく動かされた。「降る雪や」に、その詠歎の深さがこもる――。

しかし、小西氏は

 以上は、作者の自解による説明だから、これほど確かなものはないとも見られよう。しかし、わたくしは、この解釈を支持しない。わたくしは、むしろ、墨田川の水がまだきれいだった頃の濱町あたり、初代市川左團次や花井お梅(注:幕末から大正時代にかけての芸妓。犯した殺人事件が、種々の演芸に脚色され、演じられた)なんかの昔をしのばせる下町情緒に解したいのである。同じ雪でも、池袋や澁谷に降るのは、日本橋や深川に降るのと、まるきり肌が別物ですよ。「明治は遠くなりにけり」の詠歎に対して降る雪は、どうしても下町でないといけません。

と主張する。さらには「草田男がどうしてもかれの解釈を譲らないならば、わたくしは、この句を、失敗作なりと断定するよりほかない」とまで書いている。
 そして「作者自身の解釈と違ったって、たいして心配するにはおよびますまい」として芭蕉が去来の「岩端やここにもひとり月の客」について述べた次のような意見を紹介している。

 芭蕉「……しかし、いったいどんなつもりで詠んだのかね」。去来「月がきれいなものですから、野山をぶらついていますと、岩の出っぱった所に月見の先客をひとり発見した――といった句のつもりでございます」。芭蕉「そりゃ拙いよ。これはね、先着の人から、月見なかまがもうひとりございますよ――とよびかけた句に解釈しなさい。それなら、りっぱな句だ」。あとで去来は「やはり先生はたいしたものだ」と感服した。

 確かに、草田男よりも小西甚一、去来よりも芭蕉の解釈の方が句の深みがあるように感じられる。
 が、作者自身の解釈を横に置き独自の解釈を主張することはそれなりの理由、裏付けがあるときに限られよう。少なくとも私のような人間は作者自身の解釈に従う方が無難だろう、と思いつつも「一旦発表されてしまえば、その解釈は自由であってしかるべきだ」とも思う。
 そして私は、草田男の句からは小学校の校庭よりも川瀬巴水の版画、例えば「芝 増上寺」、に描かれた雪の風景を想起する。これはたぶん小西甚一の解釈に近いのだろう。