「大作家は盗作家(?)」

「大作家は盗作家(?)」

KEI(2021年8月4日)

 マスコミで著作権侵害問題が報道され、議論されているのをみると、いつも反射的に一刀両断の解決は難しいだろうな、と思ってしまう。対立している双方の意見や見解を聞くと、外野席からではあるが、それぞれについて「それもそうだ」「そのような考え方もあるなあ」と同情したり、一方の当事者の立場に立ち、相手方の見解に憤慨したりする。
 著作権侵害をテーマにした永田眞理さんの「大作家は盗作家(?)」(こう選書)の最初の章に揚げられた例を読んで頭を抱えた。そこには島崎藤村の詩「逃げ水」と讃美歌が並べられていた。
 それぞれの最初の1聯を転記すると「ゆふぐれしづかに ゆめみんとて よのわずらひより しばしのがれる」(島崎藤村「逃げ水」)、「ゆふぐれしづかに いのりせんとて よのわづらひより しばしのがる」(讃美歌319番「わずらわしき世を」)である。
 ほとんど同じではないか、と思った。
 次に述べられている例は人口に膾炙している「夜明け前」の冒頭部分である。この文章と江戸時代の紀行文作家・秋里離島の「木曽路名図絵」の一節を比較している。この文章も見方によっては「藤村は離島の文章を現代風に翻訳したに過ぎない」と言われそうだ。
 この本はいろんな例を挙げて、著作権というものを考えさせてくれ、以後私が著作権問題を考えるときの多面的な見方を教えてくれたように思っている。「翻案と剽窃」「素材と小説」「引用の作法」「ゴーストライター問題」「パロディ論争」「換骨奪胎と本歌取り」などなど。
 私は俳句や短歌を作ることはできないが、17文字、31文字で作られるこれら短い文学にあっては、ひょっとしたら先人の作と同じようなものになり、あらぬ疑いがかけられるのでは、などと思ってしまう。俳人、歌人の皆さんはどのように考えていらっしゃるのだろうか。
 また、辞書などは先人の業績の上に築かれるものであるが、語句の解釈は別として掲載されている用例、例文などについて著作権問題をどう考えればいいのだろうかとも。
 著作権については著作権法という法律が制定され、そこでは著作物について「思想又は感情を創作的に表現したものであって、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するもの」(第2条1項)と定義しているが、この文章の解釈が一筋縄ではいかない結果、著作権の侵害問題についてもいろいろな見方がなされることになる。そしてそれは時代により変わって行く。
 著者は「日本にもっと深く個人主義が根をおろし、日本人の間に独創性、個性尊重の思想が徹底しないかぎり、安易に剽窃と創造の間に一線を画することはできないのではあるまいか」と締め括っている。