電車は図書館なのだ

電車は図書館なのだ

KEI(2018年6月27日)

「○○は○○なのだ」と言うタイトルの、古き良き時代のアメリカの若者の諸々に関するとても新鮮なエッセイを読んだのは20歳代のことだった。具体的な内容は勿論、この○○や著者名をいくら努力しても正しく思い出せないのは極めて残念だが、このタイトルに倣えば「電車(の座席)は図書館(の閲覧室)なのだ」とは思う。
 リタイアして数年経過した頃のことであるが、読書から極端に遠ざかっている自分に気が付いた。読書する時間は充分にある。読むべき本も手元に積まれている。それにも拘らずほとんど読書していないと思われるような状態が続いている。その原因は、偏(ひとえ)に電車に乗る時間が無くなったからだった。
 学生時代は勿論、サラリーマン時代を通じて私の読書と言う行為のそのほとんど全ては電車の中で行われた。鞄の中には常に1~2冊の書物が入っていた。そして乗車時間が例え10分間であろうともそれらを取り出し目を通すのが常だった。
 これらのことを畏友に言ったところ「全く同感」「通勤が無くなったので読書の時間も無くなった」との答えが返ってきた。同じことが書かれた文章を読んだこともある。「みんな同じようにしていたのだなあ」と思ったことである。
 ここで「これに比べて最近の人たちは」と心の赴くままに近時の電車内での状況を描写すると、老人の繰り言に聞こえ楽しい文章にはならない。
 ここから私の心の中の意見とは別に、頭で自分自身を納得させている考えを書いてみようと思う。最近の電車の中の風景も、現代版「電車(の座席)は図書館(の閲覧室)なのだ」になっておればそれでいいではないか。
 電車の中では、確かに、「紙に印刷された活字」を読んでいる人はほとんどいない。老人は偶に目にするこれら「紙に印刷された活字」を読んでいる人々を誉めそやしたくなる。私もその一人ではある。
 しかし、書物ではなくスマートフォンやタブレットを手にしている彼ら彼女らはゲームに夢中になっているばかりではない。活字は読んでいる。この事実は認めざるを得ない。これを認めた上で、次にその読んでいる内容について云々したくなるが、紙に印刷された活字の内容の方がこれら電子情報よりもいろんな意味でレベルが上だという保証もあるまい。最近では電車内で電子書籍を読んでいる人も目に付くようになったが、こうなると内容やレベル云々の議論は意味がなくなる。
 例え現時点で彼ら彼女らが目にしている内容が、紙媒体の活字の内容よりもレベルが低いと仮定しても、そのような内容のものはその内に飽きられ、駆逐・淘汰されるだろう。そして最後に残るのは新しい情報であり、いろんな角度から分析された考え方や物の見方になるだろう。
 短い時間に幅広く多くの情報を集められるのは、スマートフォンやタブレットである。得られる情報は玉石混交であることは言うまでもないが、これは紙媒体の活字にあっても同じである。
 このように私は自分自身を納得させて「電車(の座席)を図書館(の閲覧室)として」「紙に印刷された活字以外の活字」を読んでいる人たちを擁護している。