私の読み方(推理小説)

私の、推理小説の読み方

muca(2025年4月9日)

京都府立植物園で

 推理小説の中には、(誰のものであるかが明らかにされていない)独白や、別のある時点の衝撃的な出来事が唐突に挿入されている箇所(章)がある。
 前後の章と直接にはつながらないだけで、小説が終わりに近づくと、このピースがジグソーパズルのどこに入るのかが判明していくという仕掛けになっているのだから、読者はこれを頭の片隅に置いておくことになる。概してそれは小説の冒頭に書かれていることが多いのだが、途中の何箇所かにそういう章が置かれていることもある。著者のいじわるな趣向のように感じるものである。

 私にとって、宙ぶらりんの状態でそれを記憶しておくのはたいへんなストレスである。それ以降に書かれていることが、(伏線のつもりかもしれない)ピースに結びつくときがくるのを辛抱しながら読むというのが辛い。

 著者が工夫を凝らした迷路に惑わされずに真相を看破していく能力が私にはない。それは子どもの頃の読書で早々と知ったので、そういう無駄な目的や楽しみで推理小説を読んでいるわけではない。主役級の登場人物が他者と交わす会話や駆け引きにセンスがあれば、それだけで私は満足できるのである。

 レジナルド・ヒルの “ダルジール警視シリーズ” が好きだ。
 アンディ・ダルジールの粗野ではあるが知的でヒネリの効いた “言葉遣い” が私は面白いのである。
 このシリーズの主要な脇役のピーター・パスコー(私が読んだ範囲での最新の職位は主任警部)は、ダルジールのような下品なところがまったくない。ヒルは上手にバランスをとっていると思う。

 図書館で、このシリーズの「ベウラの頂」を借りた(秋津知子訳)。
 前述した要素(どこに嵌まるのかが判然としないピース)があるので、忍耐力が要求されるうえに、やたらと人の名前が出てくる。愛称やファーストネームだけなど、やりたい放題である(笑)。何度も登場人物の一覧を見なければならない煩わしさには閉口するが、無駄のない会話でその場の緊張感と流れを設定していくヒルの文章が好きなのだ。

(前作以前で)ダルジールと親しくなっている女性

 わたしね、自分の生活をかなりしっかり区分してるのよ、アンディ。堤防に穴をあけると、厄介事がどっと流れこんでくるもの、あなたも、わたしもよく悟ったことだけど。

ダルジール(上の発言とは無関係な箇所で)

 … 彼や、彼みたいな連中について気づいたんだが、何かがあまり気に入らなくて、しかし、ぼろくそに言うのは失礼だとか、格好悪いという場合、決まって彼らが言う台詞が “非常に興味深い” なんだ。

 ヒルの観察力や注意力のようなもの、それがこういう言い回しで表現されることが私に快い刺激となり、それだけで私の読書を意味のあるものにしてくれる。

 この小説の最後に、事件全体の核となる部分が解明される。何度も遡って、関係するところを読み返して、それがようやく理解できる情けない私。けれど、ダルジールの推理力と強烈なリーダーシップが捜査を支え、ときには失敗もするが、それを挽回できる見事な収束という形で、レジナルド・ヒルは物語の構成力と筆力を私に見せつけるのである。