「でもだからこそ日誌」

「でもだからこそ日誌」

M・M(2025年6月18日)

「文學界」の連載のなかに、写真家 金川晋吾氏のページがある。

 二冊の本を出版されている。
father」(写真集)と「いなくなっていない父」(写真集出版以後のことを書いたエッセイ)。

 氏の父はどちらの本も写真は見ているが、文章は読んでいない…そうだ。
 なぜ読みたくないのか。
 氏が問うと、父は「なんとなく気が進まんかな」「その頃の自分に引き戻されるのが嫌なんかも」。そしてこの数年、両者はこのやりとりを繰り返しているそうだ。

 氏と父のやりとりに締め切りはなく、ゆったりと過ぎる日常の会話を愉しんでいるように感じる。しかし、氏は写真美術館のグループ展へ参加が決まっており、この機会に父に文章を読んでもらい、その様子を映像で撮影して作品にしようとする。

 父の撮影をやれるうちにやっておかないと、いつできるかわからない不安が氏のなかに芽生える。両親やその世代にあらわれる老いを目の当たりにしていることが大きい…

 氏が年の瀬に父に会いに行くと、父は「最初のほうは読んだ」「目が疲れるんや」「ゆっくり読んでいくわ」と笑いながら言ったそうだ。氏は作品に仕上げるには弱いものになるかもしれないと不安を感じるが、笑いながら返事をした父に、私は親しみを感じた。

 撮影後の映像は、「読もうとは思っている」「半年後には読んでるかもわからん」などと氏の問いかけに真摯に答える父の姿が映っており、これはこれでよかったのだと思ったそうだ。撮影中と後では、編集もあるだろうが湧きあがる気持ちは異なるものか。私は安堵した。

 そして、氏は今から数年後の父の撮影が楽しみなのだそう。父には「読んでほしい」「読まなくてもよい」とよくわからない気持ちを持っているようである。はたして父上は「読む」「読まない」どちらであろうか。後続を大いに期待する。父上、いかがされますか。

 と書いて「父の日」が過ぎた今、父になった「初め父」を思い、その初々しい父の気持ちを案じる。