「トピーカ・スクール」
作者のベン・ラーナーは詩人であり作家。詩集もある。詩人の書く長編とはどのような内容なのか。「言葉」にはさまざまなこだわりが詰まっているのか。「言葉」そのものをいかして書いてあるのか。コミニュケーションとしての「言葉」をどのようにとらえているのか、など興味がわく。登場人物に何をどのように語らせるのか。
ディベート(Debate)とは
高校生のアダムは競技ディベートの名手である。
ディベート(Debate)とは
ある論題(テーマ)に対し、肯定側と否定側の2つの立場に分かれ、決められたルールと制限時間の中で第三者を説得する議論手法です。個人の意見に関わらず立場を割り当てられるため、主観を排除した客観的・論理的な思考力や、批判的思考(クリティカルシンキング)を養う場として、教育やビジネス研修で活用されています。
AIによる概要
競技ディベートの訓練を積む日々が描かれる。アダムは米国に住み、多感な頃の男女の友だちと交流をする。両親(臨床心理士)の周囲の人々との絡みも多用である。父の過去が語られ、そして母の過去から現在も語られる。そこには、子育ての反省も含まれる。
競技ディベートとは
特定の論題(テーマ)に対し、肯定側と否定側に分かれ、制限時間内に論理的根拠(エビデンス)を用いて審判(ジャッジ)を説得する対戦型討論です。立論、尋問、反駁、最終弁論の構成で、より説得力ある側が勝利し、引き分けはありません。
AIによる概要
「言葉」をあやつる競技かしら。ディベートの訓練は日々の会話において役に立ちそうに思う。しかし、これが競技となると「引き分けはなし」の世界である。ある時のアダムは大学の「ディベート学会」に参加していた。審判はディベーターの親がつとめる時もあり、対戦者はその審判に向き合って立つ。アダムは優秀なので、言葉の言い間違いをも聞き逃すことなくかぶせるように訂正をする。スタートはこの訂正の言葉から始まっていると書いてある。なんだかな。そして反論されなかった主張は内容に関わらず正と判定される。反論しなければならない緊張感が伝わる。脳が疲労しそうだ。
子どものころ、アダムが寝る前に暗唱してもらった詩は…
紫の牛を見たことがない、
これからもぜったいに見たくない、
でも、これだけは言っておく、なにがあっても
紫の牛になるくらいなら、見るほうがまし!
これからもぜったいに見たくない、
でも、これだけは言っておく、なにがあっても
紫の牛になるくらいなら、見るほうがまし!
アダムは母に暗唱するように求められるが、いつもわざと言い間違える。そうすると母は苛立つふりをする。それを楽しむアダム。この場面は実際に作者もそうであったのではと思わせる。このような場面があってこその詩人だ。原風景であろうか。幸せなアダム。幸せなラーナー。この四行の詩は母から子へと伝わる。文中この詩の頁辺から詩人になりたかったようすが書いてある…
詩作とディベートの両方が必要だったのか。
[彼が詩人になりたかったのは、詩が呪文だったからだ…] しかし、詩作をすることで、柔らかい部分が強調されることに抵抗がある。
詩作とディベートの両方が必要だったのか。
アダムはラーナーであった。「トピーカ・スクール」は「言葉」がつまっていた。アダムの父は「発話と雄弁な沈黙」を往還しながら、相手と共通する地平を切りひらくと解説に書いてある。人の語りを待ちましょう。人の話しを聞きましょう!耳がいたい。