百科事典操縦法
麻(2026年3月25日)
いろんな物の処分を考えている今でも、新聞や雑誌で少し気になる記事や評論を目にしますと、びりびりとその頁を破り、掲載紙誌名、掲載日時等あとで検索するのに必要な情報を手書きし、クリアファイルに挟んで所定の場所に置いています。
ところが若かりし頃はそのような知恵もなく、ただただ切り取り、そのまま、偶々その時に読んでいた本の間に挟んだり、机の引き出しや手近にある適当な空き箱にそのまま放り込んだりしていたようです。
また、「未来の百科事典の条件」に書かれている使う側からの理想的な百科事典の条件である「必要な項目が一目で簡単に見つけ出せること」「必要な記事だけを大した労力もなく、すばやく、簡単にとり出せること」「関連項目の索引も同時に引き出せること」「記事の改訂、補充、つまり古い記事と新しい記事の『さしかえ』が簡単にできること」「百科事典そのものは大したスペースをとらず、手もとにおけること」等についてもインターネットの空間ではすでに実現されています。
現在では、著者たちが考えた百科事典のイメージが既に実現し、「私たち大衆の一人一人」が日々活用しています。
ところが若かりし頃はそのような知恵もなく、ただただ切り取り、そのまま、偶々その時に読んでいた本の間に挟んだり、机の引き出しや手近にある適当な空き箱にそのまま放り込んだりしていたようです。
かつて保守派の論客と謳われた福田恒存の名前を最近の新聞紙上で何度か目にすることがありました。手元にあった福田恒存訳の新潮社版シェイクスピア全集や関連する書物は全て処分しましたが、評論集の何冊かは手元に残っています。50数年ぶりに手に取った一冊「生き甲斐といふ事」(新潮社)に挟まれていたのが「落穂拾い」(上野良平)と題された何かの文書から破り取ったと思われる5頁3段組みの文章です。
出所のメモはありませんでしたが、その当時、書店で単行本を買ったときに付けてくれた出版社発行のPR小冊子(例えば岩波書店の「図書」、新潮社の「波」のようなもの)から切り取ったものと思われます。懐かしく思いつつ、活字の小ささに辟易しながら読みましたが、そこに取り上げられていたのが今回のタイトルにした梅棹忠雄、加藤秀俊、小松左京三氏の共著「百科事典操縦法」です。「落穂拾い」の著者はこの三氏を「いずれも名だたる博識の自称“慢性百科事典中毒症患者”である」と紹介しています。
インターネットでありとあらゆる情報が検索でき、その内容も(玉石混淆ながら)知ることができる現代において、そしてブリタニカは2012年に廃刊され、アメリカーナ百科事典は2007年の改定版以降紙媒体では発売されておらず、更に日本では2022年12月以降は会費制オンライン百科事典サービスとして提供されている平凡社の世界大百科事典の例を考えても、紙媒体の百科事典の“操縦法”を考える意味はどこにあるか極めて疑問ですが、私が好きな著者たちがどのような議論をしていたのか興味をもって読みました。
私が読んだ図書館保有の「百科事典操縦法」は1973年初版の第15刷でしたので、発行当時はかなり売れた本ではないかと思います。百科事典の“操縦”についてはいろんな示唆に富む発言がありましたが、いかんせんその基礎となっているのが紙媒体ですので、電子情報が主体となっている現代においてはそのまま適用するという訳には行きません。
それでも「百科事典の改造と未来」の章に掲げられている「百科事典をばらばらにする」「カード式百科事典」「索引を改良する」などは、現在のインターネット検索では、検索ワード選定の適否はあるにしても、既に実行されています。
また、「未来の百科事典の条件」に書かれている使う側からの理想的な百科事典の条件である「必要な項目が一目で簡単に見つけ出せること」「必要な記事だけを大した労力もなく、すばやく、簡単にとり出せること」「関連項目の索引も同時に引き出せること」「記事の改訂、補充、つまり古い記事と新しい記事の『さしかえ』が簡単にできること」「百科事典そのものは大したスペースをとらず、手もとにおけること」等についてもインターネットの空間ではすでに実現されています。
著者たちは「百科事典の改造と未来」についてこのように書きつつ、最後に「百科事典というものを、ここまで煮つめて考えると、もはや『権威のある知識の書物』という重々しいイメージからはなれて、『社会に蓄積された情報を、私たち大衆の一人一人が利用しやすい形で整理して保存するシステム』という、より一般的なイメージにひらかれて行くだろう」としています。
現在では、著者たちが考えた百科事典のイメージが既に実現し、「私たち大衆の一人一人」が日々活用しています。