「ティンカー・クリークのほとりで」

「ティンカー・クリークのほとりで」

muca(2026年1月28日)

「ティンカー・クリークのほとりで」

 著者アニー・ディラード独特の感性と表現に困惑し、それに慣れるまでかなり読まなければならなかった。
 とにかく何ページも読んでいくうちに、これを細部まで理解しながら読むのは、必ずしも必要ではないのかも知れないと思うようになった。本を読んだだけで他人の実体験そのままを共感できる能力など、私にあるはずもない。

 銀河と銀河のあいだの空間では、1立方メートルごとにたった1個の原子がひとりで踊っているという。瞬きをして、目を細める。どんな惑星が、あるいはどんな力が、ハレー彗星を軌道からぐいぐい引き離しているのだろうか。その力を見たものはまだいない。それは距離と光学密度、そして蒼白の反射光の問題なのだ。わたしたちは闇の産衣にくるまって、ゆりかごの中で揺すられている。ただの夜の闇でさえ、心を波立たせる。去年八月のこと、わたしはずいぶん遅くまでクリークにいた。

 アニーは自然科学の知識が豊富だ。これを読んでいるだけで私は、そんなことがあるのか!と驚いたり、そうだったのかと感心してばかりである。
 それらをアニーは、意表を突く表現で語るので、私は回り道をさせられているような気分で理解しようとする(途方もない)努力が要る、

 ペーター・フロイヘンは、グリーンランドのエスキモーがよくかかる有名なカヤック病のことを書いている。「グリーンランドのフィヨルドでは、完全に静まり返った天気がしばらくつづくという独特な現象が起きる。一本のマッチを吹き消す風さえなくなり、水が一枚の鏡のようになる。カヤックに乗った猟師は、臆病なアザラシを驚かせないよう指一本動かさずにじっと舟のなかに座っていなければならない……。低い太陽が彼の目にまばゆい光を送り、まわりの風景が非現実の世界へと変貌する。鏡のような水に反射する光が猟師に催眠術をかける。彼は動けなくなり、いきなり、まるで底なしの虚空を漂うように、どんどんどんどんしずんでいく……。彼は恐怖のあまり動こう、叫ぼうとするけれど、できない。からだが完全に麻痺して、ただ落ちていくだけだ」。この恐怖に取りつかれる猟師もいて、そのため家庭が崩壊したり、家族が飢えることさえある。

 これには驚くが、私がこの状況にあったとしたら、無理にでも考えることを思いついて正常な精神状態を保つことが果たしてできるのだろうかと想像してみる。けれど、実際に体験できない以上、想像しようと思うことすら意味がない。

 鳥が渡りをするのは食物を求めてであって、暖かさを求めるからじゃない。国中いたるところで人が餌箱を置きはじめたので、モッキングバードのような南の鳥がいとも簡単に棲息地域を北へ広げた。

 アニーは私に考えてもみなかった知識を与えてくれる。それも単なる知識ではなく、核となる種のようなものを私の中に置いてくれるのである。

 空を見上げる。…最後にわたしは月を見る。
  …
 瞬きすると眼が寒い。今夜の散歩はもうこれで充分だ。人がめったに感じたことのない温もりを感じるような装置をわたしは持っていない──でも、温もりはそこにある。
 アーサー・ケストラーによると、ケプラーは凹面鏡を使いながら、なにかまったく無関係の実験をしているとき、一点に集められた温もりを感じたという。ケプラーは「わたしは鏡を使って他の実験をやっていて、温もりのことなど考えてもみなかった。わたしの手にだれかが息でも吹きかけているのかと、思わずふり向いてしまった」と書いた。それは月からの温もりだった。

 月ですら温もりを持つ。もちろん月自身ではなく太陽の熱を反射しているのであろうが、たとえわずかであっても、どんなに離れていようと、私になんらかの働きかけをしているものがあると思わせてくれる。これもまた私に新しい刺激を与えてくれたような気がする。

 きのう、わたしは新しい季節を捕まえようと思って出かけた。そして、そのかわり蛇の皮を見つけた。
  …
 蛇の皮のうろこには竜骨のような突起がなかったから、毒のない種類だ。

 読んでいてなんとなく見過ごしてしまうようなこと。蛇のうろこに竜骨があるかないかで毒を持つか否かが分かるとは。そして、竜骨ってどんな形なのかと首を傾げている自分が面白い。

 無心であることを失ったとき── 大気の重さを感じはじめ、瓶のなかに死があることを学んだとき──わたしたちは感覚に別れを告げる。
  …
 わたしはトビゲラの幼虫がつくるセメントのような殻を見たいと思ってきた。友だちの小さな娘、サリー・モアと岸辺に並んで座っていたときのことだ。浅い小川の小石が敷きつめられた川底に、彼女がなにかを見つけた。「これ、なあに?」と彼女はきいた。彼女が持っている宝物に気づいたわたしは、これこそ本ばかり読んでいる人間にとっての死の象徴だ、と叫びたい気分だった。

 面白い。アニーの足元にもおよばない読書量のくせに、私にも思い当たることが何度もあったような自戒だ。

「コペルニクスにとって引力とは、球体になりたいと願う事物のノスタルジア」だった。それは事物の遠大な連鎖を示す不思議な一例。無理しないというのは完璧さに至るのひとつの方法だ。

 コペルニクスは、自然を意志のあるもののように考えたのだろうか。ここにも、アニーの発想を楽しく思わせてくれる文章に出会う。

 何度も読むのを中断しないと、流し読みになってしまうのは歳のせいであろう、簡単には頭に入らないし残らない。難解ではあるが無理に理解しながら読もうと考えなくてもいいと自分に言い聞かせる。アニーが書いていることを好きなように捻じ曲げ、これも「完璧さに至るの妥協のひとつ」の方法と思うことにしよう。