高井鴻山

高井鴻山
麻(2026年4月15日)

 辞書類と花々に関する本の間に「高井鴻山小傳」という昭和8年5月長野県上高井郡須坂町上高井教育会発行の200頁ほどの本の復刻版が置かれていました。ところどころにメモを書いたポストイットが張られ、また難しい漢字や言葉を説明する鉛筆書きの文字もあります。私の本ではないことははっきりとしています。多分この本は娘の教科書あるいは卒業論文の資料の一つだったのでしょう。
 私は高井鴻山については昔読んだ小説だったか何かから小布施の豪商、葛飾北斎と親交のあった人物ということを知っているだけです。いい機会だから高井鴻山についてちょっと勉強しようと読み始めました。

 ところが序の最初の文は「上高井の地、西に千曲の大河蜒々として流れ、東に上信の連山巍々として峙つ……」とあり「蜒々(虫偏に延)」「巍々(山冠に委と鬼)」「峙つ(山編に寺)」で引っ掛かり、意味や読み方は推察できるものの漢和辞典により「えんえん」「ぎぎ」「そばだつ」と確認できた、という体たらくになりました。序では鴻山没後50周年を契機に伝記編纂を企画したことが述べられています。
 そして、この序に続く編纂者の緒言は執筆の経緯を述べる文の後「余の史観は唯心論的にして、鴻山先生を観るに現代の世局よりす。人物伝を序するには年表的なるべからず。其風貌を明にし、其談笑活動趣好等面目躍如たるものなかるべからず。余の浅学偉人鴻山先生を描いて龍を虎にする謗あるを恐る」というものです。
 最後の節には「本書は実業補習学校生徒用となすを以て基本としたれども‥‥‥聊か難解煩瑣の嫌なきにあらず」と書かれています。私にとっては「煩瑣」ではありませんでしたが、かなり「難解」ではありました。昭和初期の実業補習学校生徒の実力、理解力に恐れ入ったことです。

 これらの文は緒言の冒頭と最後の節から切り取ったものですが、全編このような調子で書かれています。活字は比較的大きくその分私の目には優しいのですが、如何せん硬質というか無駄のない背筋がピンと伸びた文章、半数以上が漢字それも旧字体の漢字である文章は読むのに疲れます。数頁を読むと休みたくなります。

 鴻山の修業時代については「鴻山京都に入りて先づ摩島松南の門に儒学を修む。松南は京都の人、若槻幾齋の門下なり。又書を貫名海屋に、畫を岸駒及其子岸岱並に横山上龍に学ぶ。‥‥‥少年鴻山はなつかしき父母の膝下を辞し、遠く平安の旧都に遊び他人の間に交りて拮据(きっきょ)勉学‥‥‥」、北斎の来訪については「北斎が入信の門出に『八の字をふんばり強し夏の富士』を口すさみつつ出発す。その小布施に来るや、印半纏を着け、麻裏草履穿ち、風貌職人然たり。鴻山見て大に喜び、賓客の礼を以て之を遇し、留めて隠宅前の新座敷に寓うせしむ。北斎の止まること二年」と「一年に九十余回転居したりし北斎」が2年もの期間留まったのは「北斎の居心地のよかりしこと推知すべきなり」と書いています。

 このような書き振りで諸々を短い言葉で描写しています。また、「慶応二年献言」したと書かれている幕府改革の関する意見では「幕府と諸侯との関係は内外の釣合を正しくして、幕府は厳正なる心となり、諸侯は健実なる手足となりて、心身一致奮て国政の改革を遂ぐ可き事」とあるのを、編纂者は「公武合体を予量して論歩を進め居るを認むべし」と述べています。
 その他、教育家としての鴻山や鴻山の学芸についても触れ、200頁足らずの書物ですが、いろんなことを教えてくれた一冊でした。
 これを読みつつ、機会があれば小布施に行き、名産の栗を楽しみ、高井鴻山記念館や天井に葛飾北斎の八方睨み鳳凰図が描かれている岩松院を訪れたいと思ったことですが、さあ実現するでしょうか。