「湖の南」を読んで
大津市に住んでいながら、大津事件のことをよく知らなかった。今回、富岡多惠子さんの「湖の南」をみんなで読んだ。大津事件については何人かが書いているが、「湖の南」は、一番新しい作品に位置づけされるのではないかと思う。富岡多恵子さんは琵琶湖畔に移り住んでこの小説を書かれた。そのためにびわ湖周辺のいつも見る景色やビアンカ、花火大会、窓から見える三上山、柘植、貴生川、水口駅といった駅名の鉄道沿線等、非常に身近な風景やものを感じさせた。また新しく津田三蔵宅で見つかった三蔵の書簡も活用して犯人津田三蔵の家族や親族、知人などの生活、ニコライ日記からみたニコライ皇太子や王妃のこと、そして文中に電気屋の息子タビトからくる手紙の話題も取り入れ、現在も起こり得る何かとこの時代や事件とを交差しながらの展開もされていた。
時はロシアがシベリア鉄道を開通、ロシアの勢いは日本にとっても大きな脅威であった。そのような時、明治24年(1891)5月1日、来日した大津遊覧中のロシア皇太子ニコライを、警備中の巡査津田三蔵が斬りつけるという事件が起こり、時の明治政府も天皇も真っ青になった。津田三蔵の父は藩に仕える医師であり、武力の方でも優れていたが、不用意なことから謹慎、息子の三蔵は父の薫陶を受け武道にも励むが、藩兵となり、西南戦争にも従軍、手を怪我する。そのようなことからか巡査になるが、大阪の巡査になれず、滋賀の地、東浅井郡速水、2年後に守山署詰め、その時は野洲郡三上村駐在所勤務である。その時、津田三蔵は大津で警備にあたっていた。
三井寺上の西南戦争碑の所でニコライが来るというので警備もしていた。ニコライはそこには来なかったが。大津遊覧中にニコライを警備中の巡査津田三蔵が刀を首の後ろにあて斬りつけるという事件となった。大国ロシアを恐れる明治政府は津田三蔵を大逆罪で死刑にするよう迫ったが、裁判では津田は日本の国法による正当な判決を願いたいと申し立てているが、大審院長の児島惟謙は刑法どおり無期徒刑とし、日本が司法権の独立を貫いたと評価もされる事件であった。津田三蔵は北海道に送られ9月には亡くなる。著者もいっているが、もしも西南戦争がもう少し早くおわっていたら、津田三蔵も教師になる機会もあったであろうし、人の運命のいたづらというものをも感じさせられた。
時はロシアがシベリア鉄道を開通、ロシアの勢いは日本にとっても大きな脅威であった。そのような時、明治24年(1891)5月1日、来日した大津遊覧中のロシア皇太子ニコライを、警備中の巡査津田三蔵が斬りつけるという事件が起こり、時の明治政府も天皇も真っ青になった。津田三蔵の父は藩に仕える医師であり、武力の方でも優れていたが、不用意なことから謹慎、息子の三蔵は父の薫陶を受け武道にも励むが、藩兵となり、西南戦争にも従軍、手を怪我する。そのようなことからか巡査になるが、大阪の巡査になれず、滋賀の地、東浅井郡速水、2年後に守山署詰め、その時は野洲郡三上村駐在所勤務である。その時、津田三蔵は大津で警備にあたっていた。
三井寺上の西南戦争碑の所でニコライが来るというので警備もしていた。ニコライはそこには来なかったが。大津遊覧中にニコライを警備中の巡査津田三蔵が刀を首の後ろにあて斬りつけるという事件となった。大国ロシアを恐れる明治政府は津田三蔵を大逆罪で死刑にするよう迫ったが、裁判では津田は日本の国法による正当な判決を願いたいと申し立てているが、大審院長の児島惟謙は刑法どおり無期徒刑とし、日本が司法権の独立を貫いたと評価もされる事件であった。津田三蔵は北海道に送られ9月には亡くなる。著者もいっているが、もしも西南戦争がもう少し早くおわっていたら、津田三蔵も教師になる機会もあったであろうし、人の運命のいたづらというものをも感じさせられた。