名画の盗難

名画の盗難

啓(2023年8月30日)

 フィクション、ノンフィクションを含めていろんな物語を読んでいるとそこに名画の盗難事件が出てくることがある。そのたびに私は「犯人の目的は何だろう」と思ってしまう。名画を盗んだとしてもそれを美術品市場では売れない。換金することはできない。秘密裡に愛好家に売ったとしても購入者は他人にその名画を見せて自らの蒐集品を自慢することもできない。せいぜい地下の蒐集品保管室でワインを飲みながら眺めてひとりで優越感を抱くだけである。自分一人が楽しむためだけに極めて危険な盗難名画を買うとは思えない。
 このようなことを考えていたら、ロンドンのケンウッドハウスからフェルメールの「ギターを弾く女」を盗んだ犯人は、 IRA のテロリストであるブライス姉妹を北アイルランドに移送することを要求したことを思い出した。盗難品を政府恐喝の道具として利用したのだ。
 その他、盗難事件の被害者である美術館が提供するであろう報奨金を目当ての泥棒もいそうだ。また、犯人が保険会社と取引して保険会社に安く盗難品を売る場合もあるかも知れない。何となれば保険会社としては盗難保険金を全額支払うよりも、犯人から内密に安く絵を買い戻した方が経済的に有利であると考えても不思議ではないのだから。
 私が知っている美術品盗難事件は海外のものが多いが、日本でも美術品泥棒は発生している。1968年の京都国立近代美術館からのロートレックの「マルセル」の盗難事件は何かで読んで知っていたが、1990年晴海のアート・エキスポ会場からアンディ・ウォーホルの版画、1994年の新潟のコレクター宅からルノワールやピカソなどが盗まれたことは知らなかった。
 朽木ゆり子さんの「盗まれたフェルメール」(新潮選書)は何度も盗まれているフェルメール作品の盗難事件のみならず、有名絵画の盗難事件についてその発生から解決に至る道筋を新聞記事の記述を中心に関連資料も参考に再構成している。
 特に史上最大の美術品泥棒とされる1990年に発生したボストンのガードナー美術館事件については1章を設けて各種の大量の資料を基に臨場感を持って詳細に描いている。仮説として日本人犯行説もあったそうだが、バブル期に日本人が英米のオークションで盛んに絵を買っていたことに対する反感に端を発していたのかも知れない。
 多めに見て全世界に 37 点しか存在しない、私の大好きなフェルメールの作品は何度も盗難の憂き目にあっている。
 1971年9月には「恋文」(アムステルダム国立美術館)、1974年2月には「ギターを弾く女」(イギリス・ケンウッドハウス)、同年4月には「手紙を書く女と召使」(アイルランド・ナショナルギャラリー)、1990年3月には「合奏」(ボストン・ガードナー美術館)が盗まれている。「合奏」は未だに見付かっていない。また「手紙を書く女と召使」は1986年にも盗まれている。フェルメールの作品は、合計 5 度の盗難事件の被害者(?)となっている。
 朽木さんは「世界中には名画と言われる作品が山のようにあることを考えれば、現存点数の少ないフェルメールの絵が、政治的絵画窃盗事件の半分以上を占めているという事実は非常に興味深い。フェルメールが『人質』になり得たのは、まさに彼の絵が値段を付けることが不可能なほど貴重である、と考えられていたからではないだろうか」と書いている。
 なお、各国で発生した盗難美術品についてはそのデータがロンドン・ニューヨーク・デュッセルドルフに本拠を置くアート・ロス・レジスターに届けられる。ここのデータ・ベースには2000年現在で約 10 万件の盗難品情報が入っているそうだ。現時点ではもっと増えていることだろう。