もう一度「児童文学」
どうも「児童文学」という言葉が頭のどこかに住み着いたようだ。図書館で何を探すというあてもなく、棚を順に眺めていると「児童文学入門(谷本誠剛、研究社出版)「児童サービス論」(編集:植松貞夫・鈴木佳苗、樹村房)「子どもと本」(松岡享子、岩波新書)が目に止まった。
最初の二冊は大学教科書あるいは参考書、最後の一冊は著者の経験を基礎に子どもと本についていろいろな観点から書かれた一般書と見たが、この見立ては正しいだろうか。
最初の二冊の本では「児童文学をどのように捉えているか」、また三冊目の本は「アメリカの図書館では児童室の書籍をどのように選んでいるか」との観点から眺めたが、いろいろと教えられることがあった。
私にとって新しい観点、知らなかったこと、もう少し考えてみようと思ったことを書き留める。
「児童文学入門」では最初に「1.児童文学のはじまり―児童文学とは何か」が置かれている。そこでは「児童文学が子どものために書かれた、子どもの本であるというのはその通りである」と書きつつ「『子どものために』というのは、実はそう簡単なものではない」とし「いずれにしても児童文学史上の傑作とされる作品は、ほぼ例外なく大人の心や想いそのものにかかわるものとなっている」と述べる。
結論として「つまり児童文学には、大人読者そのものを当初から想定している部分がおおいにあるということである」とする。
ただ、「児童文学創作の背後には子どもをどうとらえるかという『児童観』の問題がある」との指摘は、よくは理解できなかった。「罪ある子ども(sinful child)」「子どもは天使である(angelic child)」「小型の大人(miniature adult)」「あるがままの子ども(children as they are)」と捉え方によって児童文学が変わるということだろうか。
「児童サービス論」では図書館のヤングアダルトサービスを知った。その対象は「主に中学生・高校生を対象の中心としているが、小学校高学年から大学生までを対象として視野に入れている館が多い」としている。しかし、ヤングアダルト向けの図書とはどのようなものを言うのかということについてははっきりとは書かれていない。
ここでは、ヤングアダルト文学は、児童文学の「タブーの崩壊」以後の流れのなかで出てきたという意見を紹介している。ここでいうタブーとは性・自殺・家出・離婚などを言う言葉らしい。
「子どもと本」では著者がアメリカの図書館で働いた経験に基づき書かれた「児童室の選書」を面白く読んだ。そこでは「図書館員は(割り当てられた図書に)自分なりの評価を下すわけですが、このときの基準になるのは、自分自身の読書体験(とくに子どものときのそれをよく思い出すように、とすすめられます)、図書館学校で学んだ評価の基準と方法、それに(自らが勤務している)図書館の児童書の選書方針の三点です」と明確に述べている。
これらに基づいた選定結果を評価用カードに記入する。カードはノンフィクションとフィクションに分かれ内容や評価その他を詳細に記入する。本の装丁、造本、印刷、紙質などに問題があるときはそれも記入する。これらに基づき選書会議で決定する。
図書館が選書方針を明らかにしているのは、訴訟社会アメリカの一面を垣間見るような気がするが、そのようなことがなくても選書方針が明確であることは必要だろう。
「選書会議では、読んできた委員が、短く口頭で本を紹介し、ほかの委員が意見を述べます」などと決定方法を詳しく紹介している。結果的には「どの本も少なくとも二人以上の図書館員が読んでいて、選書委員会で討論の上、委員会として受け入れを決定しているのです」となるそうだ。
これらが、三冊の本の上っ面を撫でただけの私が気が付いたこと、新しく知ったことだが、これらの本を読んでも、児童文学やその選書についての私の知識は「単に象の一部分を撫でたに過ぎない」ような気がしないでもない。
最初の二冊は大学教科書あるいは参考書、最後の一冊は著者の経験を基礎に子どもと本についていろいろな観点から書かれた一般書と見たが、この見立ては正しいだろうか。
最初の二冊の本では「児童文学をどのように捉えているか」、また三冊目の本は「アメリカの図書館では児童室の書籍をどのように選んでいるか」との観点から眺めたが、いろいろと教えられることがあった。
私にとって新しい観点、知らなかったこと、もう少し考えてみようと思ったことを書き留める。
「児童文学入門」では最初に「1.児童文学のはじまり―児童文学とは何か」が置かれている。そこでは「児童文学が子どものために書かれた、子どもの本であるというのはその通りである」と書きつつ「『子どものために』というのは、実はそう簡単なものではない」とし「いずれにしても児童文学史上の傑作とされる作品は、ほぼ例外なく大人の心や想いそのものにかかわるものとなっている」と述べる。
結論として「つまり児童文学には、大人読者そのものを当初から想定している部分がおおいにあるということである」とする。
ただ、「児童文学創作の背後には子どもをどうとらえるかという『児童観』の問題がある」との指摘は、よくは理解できなかった。「罪ある子ども(sinful child)」「子どもは天使である(angelic child)」「小型の大人(miniature adult)」「あるがままの子ども(children as they are)」と捉え方によって児童文学が変わるということだろうか。
「児童サービス論」では図書館のヤングアダルトサービスを知った。その対象は「主に中学生・高校生を対象の中心としているが、小学校高学年から大学生までを対象として視野に入れている館が多い」としている。しかし、ヤングアダルト向けの図書とはどのようなものを言うのかということについてははっきりとは書かれていない。
ここでは、ヤングアダルト文学は、児童文学の「タブーの崩壊」以後の流れのなかで出てきたという意見を紹介している。ここでいうタブーとは性・自殺・家出・離婚などを言う言葉らしい。
「子どもと本」では著者がアメリカの図書館で働いた経験に基づき書かれた「児童室の選書」を面白く読んだ。そこでは「図書館員は(割り当てられた図書に)自分なりの評価を下すわけですが、このときの基準になるのは、自分自身の読書体験(とくに子どものときのそれをよく思い出すように、とすすめられます)、図書館学校で学んだ評価の基準と方法、それに(自らが勤務している)図書館の児童書の選書方針の三点です」と明確に述べている。
これらに基づいた選定結果を評価用カードに記入する。カードはノンフィクションとフィクションに分かれ内容や評価その他を詳細に記入する。本の装丁、造本、印刷、紙質などに問題があるときはそれも記入する。これらに基づき選書会議で決定する。
図書館が選書方針を明らかにしているのは、訴訟社会アメリカの一面を垣間見るような気がするが、そのようなことがなくても選書方針が明確であることは必要だろう。
「選書会議では、読んできた委員が、短く口頭で本を紹介し、ほかの委員が意見を述べます」などと決定方法を詳しく紹介している。結果的には「どの本も少なくとも二人以上の図書館員が読んでいて、選書委員会で討論の上、委員会として受け入れを決定しているのです」となるそうだ。
これらが、三冊の本の上っ面を撫でただけの私が気が付いたこと、新しく知ったことだが、これらの本を読んでも、児童文学やその選書についての私の知識は「単に象の一部分を撫でたに過ぎない」ような気がしないでもない。